王子家出中 ―4―

モドル | ススム | モクジ
 ホー、と時折鳴く耳慣れない低い鳥の声に紛れて、人の声を聞いた気がした。
 愛馬に寄り添うようにして眠っていたブランは毛布の中からほんの少し顔をのぞかせた。スーリヤは少し離れた場所で砂よけのマントを被って眠っている。そもそも彼女の声ではなかったように思える。
「……寝ぼけた?」
 キョロキョロと辺りを見回しても、それらしい人影はない。見上げると、木々の隙間から覗く月に雲がかかっていた。
ぎゅっと毛布を握り締めて、一瞬だけ過ぎった恐ろしい想像を脳裏から追いだす。一度そういった思考に進んでしまうと、どんな些細な物音でも恐ろしく思えてしまう。
 気のせいだと言い聞かせて毛布を被りなおそうとしたところで、再び声が聞こえた。言葉の内容までは聞き取れないが、確実に人のそれと分かる。それもどうやら、こちらに近づいて来ている。
「……スーリヤ。ねえ、スーリヤ」
 こんな夜更けにこんな場所を訪れる人間の種類は限られる。その大半がロクでもない部類であることは、温室育ちのブランでも知っていた。知らせるに越したことはないだろうとスーリヤを揺り起こす。
「ん……もう少し……シャ……っ!?」
 彼女は一瞬寝ぼけた様子で寝返りを打ちかけて、すぐに飛び起きた。
「な、なに?」
 寝ぼけた自分を恥じたのか、スーリヤはマントで顔を半分隠したまま尋ねた。ブランは人差し指を口元に当て、周囲を見回しながら囁く。
「誰か近づいて来てる」
 さわさわと風が通り抜けた。
 訳も分からぬ様子だったスーリヤの顔が急に引き締まる。立ち上がって腰紐にはさんである短剣を確かめた。
「どうしよう、移動したほ」
「いや、少し見に行ってこよう」
 馬を立ち上がらせたブランの言葉を、スーリヤが遮って否定する。
「えっ、やめようよそんなの」
「ブランのように家出や道に迷った者だったらどうするのだ」
「いや……その可能性はあんまりないと思う、けど」
 射貫かれるような視線に、ブランの声がしりつぼみになる。そのままもじもじしていると、スーリヤは踵を返して草むらに入っていく。
「ブランはそこで待っているといい」
 そう言い残してスーリヤの姿は完全に草むらの向こうに消えた。愛馬と残されたブランに、生ぬるい風が吹き抜ける。
「ま、待って!」
 思わず叫んで後を追いかける。
 スーリヤは草むらのすぐ向こうの木の裏にしゃがみこんでいた。
「すーりやあ、よした方がいいよう」
 情けない声を上げたブランに、今度はスーリヤの方が険しい顔で人差し指を唇に当てた。しゃがみこむよう手を振る。
「向こうに人がいる。だが様子がおかしい」
 彼女の隣にしゃがみこみ、そっと影から覗きこむ。
「ひっ」
 喉の奥から声が漏れて、スーリヤに押さえ込まれた。
 まず目に入ったのは大きな袋が動いている様子だった。袋の口からは白い足が覗いている。先ほどからずっとブランが聞いていた声は中からのものだとついに理解した。あの足の大きさならまだ子供だろう。それを男が担いでいる。
「人攫いだな……。この国の民の魔法の力はいい売り物になるんだろう」
 ブランの口を塞いだまま、スーリヤが彼の耳元でささやく。耳にかかった吐息にどきりとする。
「そ、そうなの?」
「君も気をつけたほうがいいぞ」
「え、でも……」
 言いかけたブランを待たず、スーリヤは立ち上がって腰の短剣を引き抜いた。刀身に映りこんだ彼女自身とにらみ合うように刃を確かめる。
「なにする気?」
 真剣な眼差しにまさかと思って尋ねると、想像どおりの返答。
「無論助けに行く」
「ちょ!? それは流石に止めたほうがいいよ無理だよ!」
 踏み出しかけたスーリヤの足にすがって、必死にブランは引き止める。
「そんなこと言っている場合か! 同じ国の民が今攫われようとしているのにブランはそれを見なかったことにするというのか!」
 正しい言葉に、ブランは身をすくめる。
「それはそうだけど……でも、でも、スーリヤだけじゃ無茶だよ……誰か他に助けを呼ばないと」
「その誰かは私に当てがない。そうだ、ブラン、魔法で助けられないのか?」
「え」
 期待を込めた視線に、思わずスーリヤの足を掴んでいた手を離す。その両手を見下ろした。
――本さえあれば、できなくはない。本さえあれば。
 だけど今はない。だから、できない。
 ブランは唇をかみ締める。
 できない、などとは言いたくなった。言ってしまえば先ほどもらったスーリヤからの賞賛も、なかったことになる。代わりに得られるのは、呆れか嘲りか。どちらもスーリヤは表立ってしないかもしれない。だけど、きっと心内では失望される。
 顔を伏せたまま固まっているブランを見下ろしつつも、スーリヤは遠ざかる男の姿をチラチラと気にしていた。今にも飛び出して行ってしまいそうだ。
 覚悟を決めた。
「魔法じゃ、ない、けど、助け、られる、かも……」
 唇を震わせながらなんとかつむいだ言葉で、スーリヤがほっとしたように見えた。
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2012 chiaki mizumachi All rights reserved.