王子家出中 ―2―

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 誰にも引き止められずに愛馬に乗って飛び出したブランは、城下町を抜け北へ上る。砂の国はブランがいる森の国より南にあり、だからなのか、無意識に反対方向へと馬を進めていた。
 徐々に辺りから民家や建物が減ってゆき、日が暮れかかるころにはブランは国境間近の森にたどり着いていた。
 泣きながら走りぬいたため涙でべたべたする頬を拭い、馬から下りる。目深に被った外套を少し押し上げてざわつく真っ暗な木々を見上げ、小さく身振いをした。思わず来た道を振り返る。
「いや、いやいや。絶対帰らないんだからな」
 そんな自身を叱責するように呟いて、馬を促して森の中に入っていく。帰るにしても来ただけ同じ時間を走らなければならず、どのみち今夜は外で過ごすことになる。幸いにも季節は初夏で、気持ちだけで飛び出してほとんど何の準備のないブランにも一晩野宿するのは容易い方だ。
「どうせおれなんて、いなくなっても誰も困らないんだし」
 ぐすぐすと鼻を鳴らす。愛馬が慰めるような目で顔をブランにこすり付けた。
「そろそろ明かりをつけなきゃ……本が見えなくなる」
 心細さからくる独り言を口にしながら、ごそごそと外套の中を探る。しばらくの間そうして、はたと動きを止めた。
「ない……?」
 夕闇の中、ブランの顔が真っ青になる。
 命より大事とは言わないが、命のために大事な物が手元にない。
「本、忘れた――!」


「陛下。ブランさまのお部屋にこれが」
 夕餉を終え、国王がナプキンをテーブルに置いたタイミングを見計らって、ソルシェが手のひら大の本を差し出した。あらと小さく声を上げたのは、王に対面する形で座る身重の王妃ストリルーア。
「ブランちゃんったら、大事なものを忘れて行ってしまったの」
 大きく膨らんだ自分のお腹を撫でながらの穏やかな口調に、本を見た瞬間は眉間に皺を寄せていた国王の表情も緩まる。
「あわてんぼうなおじちゃまでちゅねぇ」
 立ち上がって歩み寄り、呼びかけるように王もまたストリルーアの腹を撫でた。
 ソルシェによる占いによれば、もう一月もすればこの国には新しい王子が誕生するだろう。余計にブランの肩身が狭くなる。
 差し出した形のままだった本をソルシェは目の上の高さまで持ち上げた。ブラン愛用の魔法の教本だ。また、大昔にソルシェ自身が書き上げ、歴代の王たちが使ってきたものでもある。持ったまま手を振るようにすると、音もなく本が消えた。
「まあなくても大丈夫だろ。いい加減本なしでもやれるんだろ?」
 その内の一人でもある王が気軽に言ってソルシェを見たが、彼女は困ったように笑って返した。
「それが陛下。指導係であるわたくしの力が及ばないばかりに申し訳がないのですが、ブランさまの魔法の力はその、はっきり申し上げまして、ええとわたくしの知るかぎりでは」
「全然はっきり申し上げてないぞ」
「わたくしの見解としては『本なしでは』やれないでしょう」
 あらあら困りましたねとストリルーアがさして困ってもいなさそうな声を上げた。
「まじか。まだお花畑か」
「まじです。本なしならもれなくお花畑ですわ」
 ううむと国王が王妃の椅子の背もたれに寄りかかり腕を組んで唸る。ちらりと壁にかけてある楕円の大鏡を見た。
 この城には鏡が多い。それはソルシェの魔女の力に所以する。
「それであのバカブランの居場所は?」
「お調べしてよろしいので?」
 意地の悪そうな笑みを浮かべたソルシェに、王は口元をへの字に曲げてそっぽを向く。
「べ、別に気になるわけじゃないけど明後日の見合いまで無事にいてもらわないと困るってだけなんだからなッ」
「あらあなた『ツンデレ』ね」
 ころころと笑う王妃としたり顔の王に、ソルシェはスカートを両手で摘み上げるようにして礼をし、鏡の上に立つ。
「鏡よ鏡、世界で一番かわいらしい王子はどこかしら?」
 問いかけの言葉に反応するように、鏡の中に波紋が渡り、映りこんだ魔女の姿が揺らぐ。微笑むソルシェとは裏腹に、鏡の中の彼女は能面のように無表情だ。その唇が、かすかに動く。
『検索結果、八十万四千です』
「まあ陛下! 世の中にはなんて親ばかの多いことでしょう!」
「うん、お前鏡の前でよくそれが言えるな」
 王の突っ込みを無視してソルシェは考えるように指で口元をなぞる。
「可愛らしいまではともかく一番をつけるなんて思い上がりも甚だしいですわ」
 愚痴愚痴と呟いてから、咳払いを一つして仕切りなおす。
「鏡よ鏡、世界で一番可愛らしい『わたくしの』王子はどこかしら?」
「普通にブランじゃ駄目なのか」
 更なる国王の突っ込みののち、波紋が渡って鏡の中の魔女が消えた。誰もいなくなり窓のようになった鏡の中は暗い。何も映っていないのかと思いきや、覗き込んだソルシェが「森の中ですね」と王を振り返り見た。
「北の国境に近いギーフェルの森でしょう。この時期にこの花が咲いているのはここだけです」
 そうソルシェが鏡の中を指したので、王も近づいて覗き込む。が、
「暗くて何も見えん」
「心の目でご覧ください」
「無茶言うな」
 漫才染みた二人のやり取りをストリルーアは座ったままにこにこして見つめている。
「ギーフェルか……距離的には間違いなさそうだな」
 屈んで覗き込んだために腰が疲れたのか、大きく伸びをしながら王が言い、そして眉をひそめる。
「しかし間の悪い。あのあたりは近頃タチの悪い盗賊のねぐらになっているとかで、近々兵を派遣しようと思ってたところだ」
「陛下の仕事が遅いから」
 心配そうにため息をつき、ソルシェはブランを探して再び鏡を覗き込む。
「陛下……更に悪い知らせですわ」
 暗闇の中で人影が揺らいだ。
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