「姫!」
突入した格納庫内はがらんとして、ひやりとした空気に包まれていた。
それまで足首まであった海水の量は急速に減り、格納庫内は水たまり程度で所々床が見えている。それを見ながら、真島はよくわからない恐怖感を覚えた。
バブルスの尾は前進をやめていた。海水の排水も止まっている。
「姫!」
真島の前で一瞬棒立ちになった黒滝は、悲鳴のような声を上げた。
いつまでたっても見えなかったバブルスの本体が、二人の目の前に立っていた。
そう、立っていたのだ。バブルスは二本の足で、乾いた床の上に立っている。
鎧にも似た鱗に覆われたその怪物は、人の形によく似ていた。
――真島は、自分の抱いた恐怖の正体を、その時理解した。
バブルスは海面から長く離れていられない。それは百年の間にすでに人類の間では常識になっており、ゆえに陸地に住み海にさえ近づかなければ、襲われることはない。
それが海を奪われた人類には、最後の保障だった。
けれどこの怪物はどうだろう。長い尾からホースのように海水をくみ上げて、本体は長く乾いた場所で動いていられる。
――進化しているのか、バブルスも。
「姫宮博士!」
身長二メートルを超えるだろうそのバブルスの手の中に、姫宮はいた。
「ぐ、う……」
自らの首を絞めるバブルスの手を握り、彼女は爪先立ちでもがいている。
黒滝の腰のシャークシステムが、ドン、と爆発するような起動音を出した。水たまりを蹴って飛び上がる。普段は海面に反発する靴底が、水たまりのわずかな水に反発して跳躍力を補強する。
「うおおおおお!」
雄叫びを上げた黒滝の飛び蹴りが、バブルスの頭らしき部位に決まった。瞬間、怪物の表面が波紋のように波打って、バブルスが横へ吹っ飛ぶ。
「姫!」
バブルスの手から解放されて床に落ち、ゲホゲホと激しく咽る姫宮に、黒滝が駆け寄る。その後ろで、むくりと敵が起き上った。
いけない、と自分も走り出した真島は、すぐそばに転がった大きなボンベに気が付いた、
「液体……窒素?」
表面に印字されたそれを一瞬目で追ったが、すぐに視線をバブルスに戻す。発砲して敵の意識をこちらに向けた。真島を見つけ、文字通り飛び込んできたバブルスの長い爪で薙ぐような動きを、剣で受け止める。吹き飛ばされそうな衝撃を、ぎりぎりでこらえた。
「黒滝! 博士を連れて逃げろ!」
叫んだが、すでに自身で宣言した通りだ。真島が言うまでもないだろう。
バブルスからの連撃で、黒滝の方を見る余裕などなかった。攻撃を受けるだけで精一杯で、せめて少しでも二人から距離を取らねばと思う。
真島を見下ろす無表情な顔には口も鼻も確認できず、おそらく目と呼んでいいのだろう部位だけはあったが、白く濁っていてロクに機能しているようには見えなかった。
「姫、姫、どうして一人でこんな無茶をした! 立てるか? 逃げよう!」
うずくまる姫宮の背をさすりながら、黒滝は彼女を立ち上がらせようと後ろから脇を抱える。
「……なにを、している」
ヒューヒューと掠れた荒い息交じりで、姫宮が顔を上げた。
「貴様の仕事はなんだ、孝秋。私にかまうことじゃあ、ないでしょう」
涙や唾液でドロドロの顔を拭うこともせず、姫宮は一度息を飲みこんで続ける。
「昨日お前は自分で言ったじゃないの。『あのときとは違う』と」
「そういう意味で言ったんじゃない! いいから立ってくれ! 俺は!」
――あいつに最期に頼まれた、俺の姫を頼むと!
懇願するような黒滝の声に、姫にはゆるゆると首を横に振った。
「確かに違う、違うはず。私は生きてる、君は間に合った。それも、一人でじゃなく」
涙の溜まった目で姫宮が視線を黒滝から逸らした。ハッとなってそれを追うと、まだギリギリ持ちこたえている真島の姿が見える。
「――仕事しろ、馬鹿義弟(おとうと)」
そう言って彼女は、意識を手放したようだった。
「姫!」
呼びかけに、姫宮は応えない。しかし息はある。生きている。
「――ッ!」
唇をかみしめて黒滝は立ち上がった。
キリキリと弓を引き絞り――放つ。
矢は敵の肩に突き刺さり、バブルスの攻撃の手がわずかに緩む。首だけが気味の悪いほど滑らかな動きで黒滝をみた。
「俺が相手だ。みんなの仇!」
来い、と叫んだ黒滝は姫宮と敵から距離を取るよう走り出す。
彼の言葉を理解したのか、単に攻撃したものに自動的に反応したのか、バブルスは真島を放置して飛ぶように黒滝を追いかける。その体の大きさから想像もできないスピードで瞬く間に黒滝に追いつき、縦の動きで爪を振り下ろす。
爪は黒滝の足をかすり、その勢いのまま床が深く抉れこんだ。
「俺を無視するな!」
後ろから真島の剣が振り下ろされたが、幾度もなく攻撃を受け止めた刃はすでに脆くなっており、派手な音を立てて真っ二つに折れた。
振り向きもせずにバブルスは腕を振り回し、爪に引っ掛けるようにして、真島の体をすぐそばにあったコンテナに叩きつける。
「ぐあ!」
腰を強く打ちつけ、真島はすぐには起き上れなかった。痛みに顔をゆがめながら支えを求めて壁に手をつこうとすると、ひやりとしたものに触れた。
「真島! クソ!」
爪が再び黒滝に襲い掛かる。飛びずさろうとしても先ほど掠った足に鋭い痛みが走る。よろめいて尻もちをつく。
結局、敵わないのか。
――みんな。
黒滝が覚悟した衝撃は来なかった。ぎりぎりで爪が止まり、ぐるんとバブルスの首が真後ろを振り向く。
「は……単細胞ね。そんな時でも本能に逆らえないの」
いつの間にか意識を取り戻し、倒れたままビニール袋――否、輸血パックにナイフを突き立きたてた姫宮が、もう片方の手でそれを撫でながら、薄く笑った。
「まあ、仕方ないか。突然新しい匂いがしたんだから」
――バブルスは血の匂いに集まる。
一瞬の、隙だった。
「うわああああ!」
真島がコンテナ脇に立っていた液体窒素のボンベに全力をかけて押し倒す。ゴォンという音は、突入直前に聞いた音によく似ていた。
ボンベから勢いよく噴出した白い煙はバブルスを覆い、動きが止まる。
「黒滝ィ!」
真島の声に、黒滝が最後の力を振り絞る。
至近距離から放たれた矢はバスンと音を立てて胸のあたりを貫いた。
そこからひび割れて――瓦解する。
ばらばらと破片が床に散らばり、凍っていなかった長い尾がぐずぐずと泡に戻りきって、それっきり、しんと、あたりは静寂に包まれた。
誰も動けなかった。笑いたかったし、あるいは泣きたい気がしたが、体の痛みがそれをさせてくれない。
静寂を破ったのは、真島の背負った装備から発せられる、ザザザ、というノイズ音だった。
「無線……復旧したのか」
人型バブルスを倒したことで、セイレーンの唄も収まったのか。
「こちら、真島」
『無事か!』
ノイズに混じって聞こえてきたのは、月本の声だった。
「はい、俺も司令も、博士も無事です。――敵の排除に成功しました」
無線の向こうがどよめいた気がした。平山の声がしているが、何を言っているのかまでは聞き取れない。
黒滝がゆるゆると起き上って、足を引きずりながらも真島の方へと近づいてきた。座り込んだままの真島に手を差し伸べて、笑う。
「酷いな、ボロボロだ」
「――お互いな」
その手をとって、真島も笑い返した。
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