Wandering fish

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10.


「ねーママ、りんご剥いてー、あっ、どいてよう」
「ねーママ、今日学校でね、あっ、邪魔しないでよう」
「はいはい、順番に聞くから喧嘩しない――おや、いらっしゃい」
 白で構成された病院の個室の中、ベッドの上の姫宮が振り返った。開け放たれていた扉の前で呆けて立ち尽くしていた真島は、ハッとして入室する。
 それまで彼女の体にべったりと抱きついて甘えていた双子の男の子が、真島の姿を見るなり恥ずかしそうに背中に隠れた。小学生の中学年ぐらいだろうか。人前で母親に甘えるのはもう抵抗がある年頃のようだ。
 室内にはほかにも、窓辺の椅子に少女が座っていたが、こちらは真島に小さく会釈した。こちらは双子より年上だろう。高学年、いや、下手をすると中学生ぐらいのように見える。
「あ、あの、これ――」
 動揺してどもりながら用意してきた見舞い用の本を姫宮に押し付けると、彼女はありがとうと受け取り、そばの抽斗から財布を取り出しながら窓辺の少女を振り返る。
「美雪、悪いんだけどチビたちを連れて下の売店でお茶を買ってきて。三本」
「ママ! お菓子買ってもいい!?」
 双子の片割れが割り込んだ。
「いいよ。でも喧嘩しちゃだめよ」
 美雪と呼ばれた少女は分かったと頷いてお金を受け取り、弟たちを引き連れて病室を出て行った。
 背中を見送ってから、ようやっと真島が口をきいた。
「お子さん、ですか?」
「んー、そう。驚いた?」
「そりゃあ、もう」
 同い年だと言っていたはずだが、それにしては子供が大きすぎる。そう思ったのを見透かしたのか、姫宮はしれっと「十代で産んだから」と笑った。
「座ったら?」
「あ、はい。――怪我の方はどうですか」
 先ほどまで美雪が座っていた椅子に腰かけて尋ねると、姫宮は小さく肩をすくめた。
「上々。というか、元々入院するほどの怪我ではないよ。ただ前回、長いこと寝たきりだったから、仕方ない。明日には退院できる」
 前回――とは一年前の悲劇で負った怪我のことだろう。
 姫宮はゆっくりと息を吐きながら、窓の外に視線をやった。この病院は少し高台に建っており、病室の窓からは海が見える。
「でも、海にはしばらく出ないことにした。こっちでやらなきゃいけない研究もある」
――液体窒素で凍結させ、黒滝の矢によってばらばらにされたあのバブルスのかけらは、その後姫宮が拾い集めて冷凍保管し、今は姫宮家の研究室で彼女の帰りを待ちつつ、一族の手によってすでに解析が始められている。
 うまくいけば、敵の正体を知る大きな第一歩になるだろう。
「立て続けにこうなってしまったから、子供たちも不安定になっているし――それに一番の心配事は解消したしね」
 にやりと笑ったが、真島は何のことか分からない振りをした。咳払いで話題を戻す。
「あの写真の女性は博士だったんですね」
「なんだ、気づいてなかったの。まあ、髪型も人相も大分変わったから仕方ないか」
 姫宮は短い髪の毛をつまんで弄ぶ。かつて長く美しかった黒髪も、あの事件で失ったのだという。もう伸ばさないんですかと尋ねると、彼女はどこか照れたように笑い、昔からの癖なのか、今は存在しない長い髪を手櫛で掻き揚げるような仕草をした。
「顔と髪、どっちも夫が気に入っててね。私をおいていく代わりに持っていったんだと思うことにしている」
 薄く開けた窓から潮風が入って、抽斗の上に飾ってある花瓶の花が揺れた。つられてふとそちらに視線が行く。
「ああ、昨日は月本中隊長がいらしてね」
 花を指しながら、思い出したように姫宮が言った。
 知らなかった、と真島はつぶやく。どこかに出かけていくのは見かけたが、一言もそんなことは言っていなかった。一声かけてくれていたら、同行していたのに。
 それは無理だったろうなと言い、姫宮はまた、くすくすと笑った。
「来るなりいきなり謝ってきたんだ。あっちは私のことを覚えていたらしくてね。残念ながら私の方はすっかり忘れていたし、鬼黒と呼んでいたからてっきり独身時代知り合いかと思っていたんだが」
――駆け落ちだと思われていたらしい、と、姫宮は笑った。
 思いつめた空気で、一緒にいたから。
「私の父のように、それに近い関係になることを望む連中もいたようだけれど――まあ、それだけは、ないな」
 何か真島の反応を待っているような顔をしたが、彼がそれに応えるよりも先に、「母さん」と美雪が戻ってきた。
 三本のペットボトルのお茶――なぜ三本なのだろう、と今更真島は思った――を受け取りながら、姫宮は尋ねる。
「孝秋には会った?」
「え、いえ、まだ」
 黒滝も同じ病院にいたはずだが、すでに退院している。職務に復帰するのは明日からだ。
 姫宮はペットボトルを一本、自分の手元に置き、二本を真島に差し出す。
「あれが兄貴の半分でも自分の欲求に素直なら、少しは生きやすいだろうに。まあ、頑張るといい」
 そう言って、彼女はどこか見透かすような目で笑った。


 多くの命を抱いた海は、今日は一見、穏やかな色をしている。
――波音が心地よい。
 病院と基地からほど近い波止場まで来た真島は、目的の背中を見つけた。
「ここにいたんですか、司令」
 振り向いた黒滝は、驚いた顔をした。
「よくここがわかったな」
 真島は黙ってビニールに入れて持ってきたペットボトルのお茶を一本、黒滝に手渡した。不思議そうに受け取った黒滝は、それに病院の売店のシールが貼ってあるのに気付いて、ああと苦笑した。
「姫か」
「はい。あの人は恐ろしいですね。なんでもお見通しだ」
「当たり前だろ、なんたって『鬼』蔵の一人娘で、黒鬼を婿に取るような女だぜ。姫宮ゆきの『ゆき』だって、ホントは漢字で雪鬼って書くって、うちの部隊でしょっちゅう言われてたよ」
 受け取ったばかりのペットボトルの蓋を開けながら、黒滝は言った。遠い水平線を見つめるその顔に、少しだけ寂しさが滲んでいる。
「挨拶に来た日、ずっとここにいたそうですね。博士、身投げするんじゃないかってハラハラしてたそうですよ」
 真島の言葉に、黒滝は再び苦笑を浮かべる。
「通りであいつ、中々帰らないと思ったら。そんなわけねぇのに。――あとその下手な敬語やめろってば」
 真島は黒滝の隣に座り、自分もペットボトルのキャップをあける。
「もしかして、俺のこと待ってた?」
「うぬぼれんな、バカ」
 打てば響くような返し。
 すっかり以前のような関係に戻れている。
「昔よくここで話したものな。まぐろの話とか」
「そう、まぐろな。よく覚えてんな」
「言っただろ、忘れてないって。ここで起きたこと、全部」
 真島は黒滝をまっすぐと見つめると、彼はほんの少し目を見開いて真島をじっと見つめた後、目を逸らす。口元が少し緩んだのを、真島は見逃さなかった。
「俺は、忘れた」
 つられて真島も口角が上がったことに気が付いた黒滝が、張り合うように言って口を尖らせた。
 そう来たかと思って真島は膝の上に肘をつく。
「動揺すると相手じっと見る癖、直ってないんだな」
「なっ、えっ」
 自分では気づいていなかったのか、狼狽した黒滝を見て、真島はそれまでの仕打ちに対する溜飲を下げたような気持ちになる。
「嘘つくときとか。ああ、そういえば司令室で俺のこと覚えてないって言ったときも……」
「そっ、そうそう、まぐろ! まぐろで思い出した!」
 藪蛇だと思ったのか、話を躱すように話題を戻した黒滝がポケットをまさぐって、何かを取り出した。
「何それ」
「ツナ缶。まぐろの油漬けだとよ」
 手のひらに収まるサイズの薄い缶詰だ。つまんで目の高さまで持ち上げ、少し錆びて色あせたラベルを眺める。
「俺のじいさん食道楽だって言ったの覚えてるか?」
「ああ、覚えてる」
 頷いた真島に、黒滝はやはり少し嬉しそうにはにかむ。
「久々に実家に帰って片づけしたら、押入れから発掘したんだ。どうやらじいさんが大事にとっておきすぎて、忘れちまったみたいだな」
「チキンって書いてあるけど」
 かろうじて読み取れるラベルを指すと、黒滝は興味深げに頷いた。瞳がきらきらと輝いている。
「海のチキンらしい。味が似てんのか、食感が似てんのか分かんねぇけど。……食えるかな」
 少し膨らんだ缶の上面には、百年近く前の数字が印字されている。
「いや、賞味期限百年前じゃないか」
 無理だろ、真島がそう口にするよりも先に、期待に満ちた目で黒滝がプルタブをぱきんと引き上げた。ゆっくりと露わになっていく中身を、二人して恐る恐る覗き込む。
「――あ」
 波止場のカモメたちだけが、二人の様子を見守っていた。

(終)


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