Wandering fish

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8.


――何故こんな時に思い出してしまうのか。
「ひめー! ひーめー! 今日も可愛い! 愛してるぞー!」
 黒滝の前方を走っていた男が、堤防に立つ妻の姿を見とめて大きく手を振った。
 その声に海を双眼鏡で覗き込み、手にしたバインダーに熱心になにやら書き込んでいた、姫宮が顔を上げる。背中を覆っていた長く黒い髪が潮風にたなびいた。
「馬鹿夫、ちゃんと仕事しろー」
 火傷などない、白い肌で薄く笑った言葉には、甘さが含まれている。
 男――黒鬼こと、姫宮春暉(しゅんき)は嬉しそうにさらに手を振った。
「お前も、姫だろ、このバカップル」
 息を弾ませながら、黒滝は兄に向って呟く。婿入りしたために仕方ないとはいえ、似合わない姓だ。百九十センチに近い身長に、硬く締まった筋肉質な体。走りにくい砂浜ですでにハーフマラソン程の距離を走り続けているというのに、弟の黒滝とは違って疲れた様子など一切見せていない。
「なんだようらやましいだろ」
「バカ、言えッ」
 ニヤついた顔に腹が立って腰のあたりを叩く。兄弟の身長差はニ十センチ近かった。痛ぇな、とさしてそうでもない風に腰をさすり、黒鬼は弟の首に手をかけて引き倒す。うわ! と短い悲鳴と共に、砂埃が舞った。
「ッ……ギブギブ!」
 後ろから抱きつかれるように裸締めを食らい、黒滝は容赦なく絞め落そうとする兄の腕を慌てて叩く。
「ゆきは俺にとっての碇だぞ。ゆきが居なけりゃ俺なんてとうに波に流され飲まれ、きっと二度と戻ってこれない。それをバカとは、思い知れ!」
「姫ッ、じゃねぇよ! お前にバカだって言って、ぐぇ!」
「なんだ、それは許す」
 拘束を解き、咽る黒滝をそっちのけで立ち上がり、黒鬼は砂まみれになった自分の体を払う。
「こいつの為に生きて戻ろうと思う相手、お前にもいるだろ一人や二人」
「――い、いねぇよ」
 脳裏に誰かの横顔がよぎった気がする。違う。波音が思い出させるだけだ。
 感触を思い出そうと唇を舐めたって、今はもう自分の汗の味しかしない。
 ほんの一瞬の触れ合いは、どちらからともなく、そうすることが当然の流れのように行われたはずなのに、二人の間に残ったのは気まずさだけだった。
 だから相手にとっては恐らく事故で、自分にとっては気の迷いだった。
 そう言い聞かせて思い出を記憶の奥底にしずめても、ふとした瞬間に浮かび上がってしまう。赴任先が横須賀から遠いことを理由にして、黙って逃げるように寮を出た後悔と共に。
「なんだ今の間。いるのか、まじで!?」
 喉元をおさえそのまま黙り込んだ弟に、黒鬼は驚いた様子で顔を覗き込んでくる。
 咽てただけだ、と黒滝が言い返す前に、前方から折り返して走ってくる集団が見えた。振り向いて気づいた黒鬼がやべぇと呟き、黒滝も同じ気持ちで慌てて立ち上がる。
 先頭を走る一番の大男――黒鬼部隊の回遊隊中隊長だ――が叫んだ。
「お前ら遊んでないでちゃんと走れゴルァア!」


「――令、司令!」
 真島の声に、ハッとして黒滝が振り向く。
 再び現れだしたバブルスが、背後から黒滝に牙を向けていた。弓を構えるよりも先に、真島がそれを切り伏せる。
「司令、大丈夫ですか」
 尋ねた真島も、すでにだいぶ息が上がっている。平山が居なくなり、逆に艦首に近づくほどバブルスの量は増えている。どちらも限界が近いような気がした。
「あ、ああ……悪い」
 礼を言いつつ、黒滝は卵泡を踏み割った真島をじっと見つめる。
「なあ、敬語、やめろよ」
 ややあって聞こえた言葉を、真島は聞き間違えたのかと思って聞き返す。
「え」
「ずっと不愉快だった。やめろ」
 でもと言いかけた真島に、黒滝は矢を放ちながら背を向けた。
「――お前、こんなことになってもまだ海が好きなのかよ」
 それを聞いて嗚呼、と真島は思った。胸のつかえが取れたような、凝り固まっていたものがほぐれたような、あふれ出していくような気がする。
「好き、です」
 だから敬語、と黒滝は言いつつ、歩みを速めた。目指す艦首には格納庫がある。島で物資を放出して、今はほとんど空のはずの格納庫が。
 またビニール袋が落ちている。点々と廊下の上に落ちていて、まるで二人を導いているような。
「変わらねぇのか。……安心した」
 ぎこちないが笑みを浮かべた黒滝に、真島は泣きたくなった。
――そこに居たのは、真島のよく知る彼だった。
「俺は、忘れてないよ。忘れたことない」
 泣いている場合ではない。だから、なんとかそれだけ言った。
 黒滝は何を、とは聞かなかったし、真島も何をとは言わなかった。それは全部、後でいい。
「急ぐぞ」
 代わりに黒滝がそう言ったのと同時、ゴォンと、前方で金属が倒れる音がした。
 二人は顔を見合わせ、どちらからともなく走り出した。


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