Wandering fish

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5.


 護衛回遊の任務と罰則のランニング、それに小隊長としての雑務を終えて、ふらふらになりつつなんとかたどり着いた食堂で、真島はようやく渡されたフォトケースを開いた。
 中に入っていた写真は一枚。どこかの艦の甲板の上で撮ったらしい集合写真だ。真ん中に立つのは精悍な顔つきをした大柄な男性で、隣に立つ長い黒髪の綺麗な女性の肩を抱いている。隅の方に屈強な男性たちに混じった黒滝を見つけた。学校を卒業してまだ間がないのか、心なし今より顔の輪郭がふっくらしている気がする。
「シンちゃーん、今日のカレーどお?」
「ん、おいしいです、エリーちゃん」
 厨房から野太い声を上げながら尻を振るように歩いてきたのは、給養小隊長の江利川という男で、その名字と本人の性格の方向性から、皆からはエリーと呼ばれている。
「いつもと違うのよお? わかる? 具材をケチャップで炒めて、コンソメで煮てからルーを入れてみたのよ。コウちゃん達ったら全く気づかななかったんだから」
 コウちゃん、とは月本のことだ。彼にかかればみんな子ども扱いをされる。
「んー、言われて、みれば、違うような……」
「もう! シンちゃんまで! 違いの分かる男はここにいないの!?」
 腰に手を当て、エリーは「姫ちゃん博士監修で作った、鬼黒部隊仕様なのに」と頬を膨らませる。年齢不詳とはいえ不惑はとうに超えているだろうに、なんとなく可愛いと思わせてしまうところが恐ろしい。
「なんでまた黒鬼部隊仕様? 黒滝司令着任記念?」
 大振りにカットされたジャガイモをスプーンで割りながら尋ねると、エリーは向かいの椅子に腰かけながらテーブルの上で両手を組んで顎を乗せた。
「アタシの同期も鬼の宿の給養小隊長やってんのよ」
「鬼の宿?」
「鬼黒のいる艦をそう呼んでいるのよ。まあ、勿論あだ名だけどね。正しい名前はなんだったかしら――まあともかく、その同期に一度作ってもらったカレーが忘れられなくてねぇ……。監修してもらってまで作ったもののなーんか物足りないのよぅ」
「――連絡してみたら?」
 ため息を吐いたエリーにジャガイモを飲み込んでから尋ねると、彼はさらにアンニュイな表情をしてみせる。
「してみたんだけど、繋がらないのよ。まあ任務中ならお互い人のこと言えないんだけど……」
 言いつつも、なにやら思うところのありそうな顔をしている。
 尋ねようとすると厨房の方で何やらワイワイと聞こえてきた。別の小隊が護衛任務明けでやってきたらしい。
「エリーちゃんお米たりなーい!」
 はいはいとエリーがテーブルに手をついて「よっこらせ」と掛け声つきで立ち上がり、じゃあねと言って真島にぽっちーんとウインクをして行ってしまった。
「そういえばエリーちゃんも鬼黒呼びなんだな……」
 ぼんやりと呟きながら、カレーのトレイの横に置いたフォトケースを見る。写真の中の黒滝の笑顔は真島がよく知る頃のものと変わらない。今の黒滝のあの冷たい、北の海のような表情とは結びつかない。
――一体、なにがあったのか。
 黒滝と会って話がしたかった。


 仮眠から、不意に目が覚めた。
 恐ろしい夢を見ていた気がする。任務中にあんな目に遭ったからか。
 時計は起床の予定より一時間以上も早い時間をさしていた。二度寝をしようと狭いベッドを軋ませて寝返りを打ったが、体は未だに泥のような疲労感に包まれているにも関わらず、逆に目は時が経つにつれ冴えていった。
「……くそ」
 悪態をつきながらむくりと起き上る。このまま横になっているのが体力的にも最善のような気もしたが、じっとしているには何故だか気持ちが落ち着かなかった。
 ランニングシャツの上に上着を着て、軽く身だしなみを整え、外の空気に当たるべく甲板へと向かう。
 見回りの隊員に軽く会釈をしながら甲板に出ると、外はしとしとと弱い雨が降っていた。
「……黒滝、司令」
 昼間だというのに薄暗い曇天の下、前方にぽつんと一人で立つ姿に気が付いた。
「こんなところにいては濡れますよ」
 背後からそう声をかけたが、真島に気づいていないわけではないだろうに、黒滝は俯いて身動き一つしない。好意的な反応は得られないかもしれないとは思っていたが、まさか無視されるとは考えてもいなかった。
「司令は、本当に俺のことを覚えていないんですか」
 当然のように、答えは返ってこなかった。呆然と立ちすくむ。
 真島はようやっと、理解した。覚えているいない、そういったレベルの話ではない。嫌われ――いや、それ以下の可能性もある。
 黒滝と真島の間に、深い川のような溝がある。それが離れていた時間の長さがもたらしたものか、共にいたときから存在していたのに気づいていなかっただけなのか、真島には判断がつかない。
「っ」
 下唇を噛んで、ポケットから姫宮から託されたフォトケースを取り出した。
「司令、これ、姫宮博士からです」
 それを押し付けると、初めて黒滝の表情が動いた、気がした。
 こみ上げる敗北感を、抑えられなかった。
「……一体、……あなたに、なにがあったんですか」
 その言葉は、ほとんど声にならなかった。
 霧のようにただ煩わしいだけの細かい雨が、徐々に収まり始めている。
 黒滝はフォトケースを握りしめ、霧雨のせいか、頬が濡れていて泣いているように見えた。しかしそれは、ただの真島の見間違いのようだ。
「どうして今更、よりにもよってお前が居る隊なんだ」
 黒滝はそう、吐き捨てるように言った。
 雲の隙間から太陽が射し込む。照らされた黒滝の視線はここにきて初めて真島をまっすぐと見据えていた。
「覚えていないか、だと? お前こそ、俺と、何があったのか忘れたんじゃねぇか」
「なに、が?」
「なんで、何もなかったみたいに振る舞えるんだ。……あの時も」
――なんの話をしている。
 だが、問い詰める言葉は爆発音にかき消さた。
「なっ!」
船が大きく揺れ、体勢を崩した黒滝の制帽が落ちる。
「なんだ、今のは」
 続けて、緊急事態を報せるけたたましいサイレンの音が鳴り響く。
 よろめいたがなんとか手すりを掴んでバランスを保った真島が驚いて海を見下ろすと、高い波がひっきりなしに船に押し寄せていた。海上の隊員が右往左往しているのを第四小隊長が隊列を立て直そうとしている。
 隣で同じように海を見下ろした黒滝が小さく舌打ちし、それでも冷静に落とした帽子をかぶりなおした。
「――なにをしている。今すぐ戦闘準備をして作戦室に迎え! 早く!」


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