Wandering fish

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4.


「二射皆中、お見事」
 小さな拍手に、残心の構えを取っていた黒滝が振り向く。
「今日はもう休むんじゃなかったのか」
「ん? んーなんだか胸騒ぎがして。でも、腕が衰えていなくてよかった。一年ぶりだし不安があった」
 双眼鏡を首からぶら下げた姫宮が両手を合わせたままいたずらっぽく笑い、逆に黒滝は不機嫌そうに弓を下げ、肩から矢筒を下した。
 二人のいる艦橋の左右に張り出した見張り所は風が強く、姫宮はそばに丸めてあった黒滝の上着を拾い、彼の肩にかけてやる。
「対して、君の同期クンはまだまだね。すぐに冷静に刺していれば対処できた。あれは最初のエイ型と違って柔らかいし、万が一捕まっても人間を丸飲みできるほどの顎の力はない。足からゆっくり食われる。けれど、噛まれた時点で、なんなく殺せた」
 肩の上着に手をやりながら、黒滝が背後の姫宮をにらみつける。
「そんな怖い顔しないでよ。私の前任者は一体何をしていたのかという話をしているだけ。きちんとした対策が知識として行きわたっていないって、それだけの話」
 言いながら、姫宮は黒滝から離れ、手すりにもたれて海を見下ろした。隊員たちが卵泡を割るために動き回っている。各隊員が身に着けるライトのせいで、まるで海面を星が動いているかのようだ。
「――でもその顔。やっぱりあの時の『記憶にない』なんて嘘か」
 あの時とは前任者の原田に挨拶に行ったときの話か。
 振り向いて、「何故隠すの」と問うた彼女に、黒滝は別にと口ごもった。
「本当に、記憶になかっただけだ」
「記憶にない同期を一年ぶりに持った弓で必死に助けるの」
「……部下の命を守ることに記憶は関係ねぇ」
 その口調は、まるで子供のようだ。
 姫宮は目を細める。
「そう。そういうことにしておくか」
――そういう頑固なところ、そっくり。
 ため息に混じった姫宮の言葉に、ぎゅっと、弓を握る黒滝の手に力がこもった。姫宮は、それに気づかないふりをした。
「それで、その大事な部下に、これから何が起こりうるのか、知らせなくていいの。他が信用ならなくても、同期クンにはせめて」
「いい」
 彼女の声をかき消すように、きっぱりと黒滝が答えた。
「なぜ」
「何も起こりえないからだ」
 短い問いに短い答え。初めてムッとしたように姫宮が眉をひそめた。
「なぜ断言できる。似ているとは思わないの? 明日は満月、朝から雨の予報で、夜には晴れる。それ以外も今回の条件はあの時とほぼ同じ」
「その条件で確実に起こるとは限らない。そもそも場所が違いすぎる。こんな南の海域で、同じことが起こるはずがない。あの時とは違う」
「はずがない? それは自分に言い聞かせているの」
 言葉尻をとらえた姫宮の瞳に、瞬時に怒りの色が宿った。
「いつからそんな臆病者になった孝秋。貴様それでも黒鬼部隊の一員か!」
 激高する彼女に、誰かの姿が重なり思わず目をそむけた。「もう違う」と黒滝は背を向ける。
「黒鬼はいない! 鬼の宿も部隊も――みんなみんな全部、海の底だ!」
「っ!」
 叫びのような声に、姫宮が口をつぐむ。黒滝もハッとして振り返った。
「……ごめん。でも、その話はやめろ。やめてくれ。頼むから、姫」
 今日はもう休め、そう言って黒滝は逃げるようにその場を後にする。取り残された姫宮は深く息を吐き出して手すりに持たれ、天を仰いだ。
 ベリーショートの髪の毛を指で握りしめるように梳るが、短い毛は指の間からすぐにすり抜けた。


「黒滝!」
 足音と声に、海を見下ろしていた姫宮がびくりと振り向いた。思っていた人物ではなかった上、まったく予想外の人物に、真島も動揺し、慌てて姿勢を正す。
「あ、の、ここに黒滝司令はいらっしゃいませんでしたか」
 姫宮の視線が真島の体を上下した。シャークシステムの装備もそのまま、海に落ちたためにずぶ濡れ。極めつけは怪我の手当てもしておらず左腕は赤黒くなっている。無理もない。
「いや、見ていない。私はずっとここにいたけれど」
 姫宮の口をついたのは、真っ赤な嘘だった。しかしそうとも知らずに真島はあからさまに肩を落とす。
「そうですか、そうですよね……」
――やはり矢だと思ったのは気のせいで、誰かの弾が当たったのか。
 なぜだろうか、自分でも驚くほどに真島はがっかりとしていた。
「失礼しました」
「ねえ、ちょっと待って」
 そのまま立ち去ろうとしたのを、姫宮に呼び止められる。それ、と彼女が指差したのは真島の左腕だ。
「怪我、見せなさい」
 言われて真島は彼女が医師としてもこの艦艇に乗り込んでいることを思い出した。
「いえ、見た目ほど大したことないので」
「大したことなくても、怪我は怪我。まさかそのまま海に戻るつもりなの。血の匂いにバブルスが集まるのを、知らないとは言わせない」
「……はい、申し訳ありません」
 反論の余地もなく、真島は姫宮に連れられて医務室へと向かう。
 艦尾にある回遊隊の出撃用ハッチに程近いその部屋には姫宮の他にもう二人いる医師のどちらかが詰めているはずだが、二人が部屋を訪れたときは無人であった。
 ぐるりと見渡して、姫宮が真島を振り返る。
「まさかいつもそうなの」
「いえ、そういうわけでは……」
 言いよどんだ真島に、彼女は目を細めた。
「今回から、ということ。上が変わると自分も変わるとは、ああ、素晴らしい職業意識だ」
 理由を理解した姫宮が皮肉を呟く。
 前任者の原田と違って、黒滝は若い。若すぎると言っていい。軽んじているのは平山だけではなかった。なにせさらにその前に居た越智という前例もある。
 まあいいと、姫宮は手当てを開始した。はめていた黒い布手袋から薄手のゴム手袋へと取り換えるとき、ちらりとその両手にも火傷跡が見えた。
「――君は、敵の正体はなんだと思う?」
 すでに大分ボロ布と化していた制服とその下のウェットスーツを取り払いながら、上目遣いに姫宮が尋ねた。唐突な問いに、意図をはかりかねる。
「バブルス、ではなくてですか?」
「その正体、の話。あと敬語じゃなくていいよ。孝秋――っと失礼、司令の同期なら私とも多分同い年だから」
「はあ……いや、そういうわけには」
「ふうん、見た目通り真面目なの」
 発生から百年たっても人類は敵がなんなのか分かっていない。彼女のように研究者が同行してもだ。活動を停止したバブルスは再び泡と消える。生きて捕らえるしか生態を知るすべはないと言われているが、その方法はまだ見つかっていない。
「海で死んだモノの亡霊だとか、海底に異世界とつながる裂け目があってそこから湧いて出てきている、とか、色々言われているけど、自分で考えたことない?」
 バブルスを海の神の使いだと崇める新興宗教さえあると聞く。それを排除している人間の方が災いを呼ぶものだと。
「……天災、でしょうか」
「ほう」
「こちら側がうまく適応するしかないと、思いま――っ!」
 消毒液が沁みて顔をゆがめた。血は止まっていたが、ぽつぽつとした斑点のような傷の赤が自分の腕なのに気色悪い。
「おおむね同意見かな。――気が合いそう」
 姫宮はそう言って笑った。何かを試されたのだろうかと真島は思った。そして答えは彼女の満足のいく回答だったとも。
 姫宮は天井を見上げた。つられて真島も天を仰ぐ。
「ちなみにどこぞの司令官は『魚の進化系だといい』と答えた。食べられるから、と。別に誰も願望は聞いていなし、そもそも泡になるんだから食べられないんだけど。あれには呆れた」
「――黒滝らしい」
 思わず笑みがこぼれた。うっかり呼び捨てにしてしまったことに言ってしまってから気づいたが、姫宮の方は気づいているのかいないのか、そのことについて言及はなかった。
「司令とは、長いんですか」
「んー、そう。大湊に配属になる少し前から。話すようになったのは黒鬼部隊に来てからだけれど」
――ということは自分の知らない黒滝を知っているということだ。
 自分の知っている黒滝と、あまりに繋がらない今の彼の隙間を埋めることができる人物。
「なにかあったんですか、司令に」
 聞いておきながら、ないわけがないと思った。あまりに分かりきった問いだ。
 姫宮は包帯を巻く手を止めて、じっと真島の目を見つめた。何か、知られたくないことまで見透かされてしまいそうな気分になる。目を伏せたくなる。
 その時ふっと彼女が笑みを浮かべなければ、あと少しで目をそらしていただろう。
 姫宮は上着のポケットから黒い折りたたみのフォトケースを取り出した。一度だけ開いてすぐに閉じ、真島に差し出した。
「彼が話さないことを、私の口からは言うことはできない。けれどこれを――孝秋に渡すといい。彼のだから」
 受け取った革製のそれは傷だらけでボロボロで、所々焦げついていた。開こうとした真島の手をやんわりと包む。
 姫宮は、どこか慈しむような、それでいて悲しげな、泣き笑いのような顔で言った。
「そしてできるなら、あいつの背中を、守って欲しい」


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