「あれ、仲兄ぃ今日晩御飯要らないの?」
電話の上に貼ってあるホワイトボードを見て、小夜が驚いた声を上げた。ホワイトボードは家族の予定を書くためのもので、俺の今日の欄には「飲み会。夕食×」と書いてあるはずだ。
俺はシャツを畳む手を止め、俺のそばにやってきた小夜を見上げる。
「あー、サークルの飲み会だったの忘れてた」
「バイトじゃないの?」
「代わってもらった」
俺は週に二回、深夜のコンビニ店員をしている。大学に入ってから小遣いがなくなった俺にとっては、唯一の生命線だ。
「ええー、早く言ってよ、もう作り始めちゃったよ!」
「朝には書いたぞ」
「見てないよ!」
むうと、小夜が頬を膨らませ、カラフルなピンチェックのエプロンを握り締めた。去年か一昨年にアニキが誕生日プレゼントに送ったものだ。エプロンは他にも何枚か持っているはずだが、アニキが見るたび毎回似合う似合うと喜んで褒めるせいか、これの着用率がやたら高い気がする。
「今日は大兄ぃもゼミの飲み会だって言ってたから、仲兄ぃの好きなツナの炊き込みご飯、セットしたのにー」
我が家の家事は当番制で、冷蔵庫に丸い当番表が貼ってある。今日の炊事は小夜、洗濯は俺で、掃除はアニキだった。今日の仕事である洗濯物は、あと数枚畳んでいておけば終了する。
「冷凍すりゃいいじゃん」
「カツオのたたきも買ってきたのに! 多いよ!」
それは確かに一人では消費できないか。
「つか、まだ五時すぎなのにずいぶん準備早いな」
うちのいつもの夕食の時間は、七時すぎだ。何かあるのかとホワイトボードの方を見たが、小夜の欄だけぽっかりとなにも書かれて居ない。
「今日は七時から先生が来るから、早めに食べて……あ! 先生ご飯食べるかな? 食べないできそうだよね! メールしてみよっ」
名案だとばかりに顔を輝かせ、小夜は小さく手を打った。
ああ、今日から登坂さんが家庭教師としてくるのか。それこそ書いておけよ。というかいつの間にアドレス交換したんだ。
メールを打ち始めた始めた小夜を尻目に、俺はアニキと俺のトランクスを最後に畳み終えて、洗濯物の山を抱えて立ち上がった。俺の待ち合わせは六時半だが、本屋に寄りたいのだ。
「小夜、洗濯物置いとくから自分で持ってけよ」
「はーい」
元気だけはいい小夜の返事を背後に、俺は脚で部屋の戸をあけた。
「えー、それって大丈夫なわけ?」
「なにが」
民謡研究会の飲み会の片隅で、黒霧島の水割りをなめるようにしていた青山が、茶化すようにニヤニヤと笑う。なにがと聞いておきながら、なんとなく嫌な予感しかしない。
「だってさー、兄ちゃん二人ともいないんだろ? んで男の家庭教師と二人っきり! きゃーえろ同人誌みたい!」
「なにが言いたいか理解できないが、とりあえずぶん殴られたいのは分かった」
睨み付けると、男のくせに随分甲高い声をあげやがる。普段から酔ったような性格だが、焼酎四杯を空けた後だからさらにひどい。軽く握ったこぶしを前頭部あたりめがけて振り下ろした。
「ぎゃー! カヨお姉たまー岩月が殴ったー」
「はいはいわろすわろす」
三席分隣に座る女子に絡もうとして、見事にスルーされた。しくしくと悲しげに泣きまねをしてから、誰もかまわない事に諦めて真顔に戻って向き直る。
「いやホントまじで。可愛い可愛い小夜ちんを一人にさせて大丈夫なわけ」
「……大丈夫だ、ろ」
最後の一文字分だけ自信が揺らいだ。
登坂さんは確かに男だけど、アニキの相手だし……なんてことは、いくら高校からの付き合いである青山でもなかなか言えなかった。それに、先日の顔合わせでは結局直接会話することもなかったから、登坂さん自身が一体どういう人なのか、俺にはわからない。妹と結婚できない云々とか抜かしているアニキを、本当に好きなのか。ていうかあれ、登坂さんにも相当失礼だと思うんだが、知ってるんだろうか。
そういえば家庭教師初日だというのに、アニキが飲み会だってのが小夜命な奴の行動にしては珍しい。てっきり常に横から茶々を入れたいがための、身内(ある意味)からの採用かと思ったのに。
つまりあの妹バカアニキが小夜と二人きりになることを許可した男なのだから、多分、信用していい。
「いっちばーん、青山物まねします! カヨの蝦夷富士歌ってるときの顔ま……ぐはっ」
黙りこんだ俺に興味をなくしたのか、青山が突然立ち上がって歌いだそうとし、すぐに女子に取り押さえられた。黙って三味線だけ弾いてりゃ三割ましにみえるのに、酒が入ると途端に残念なことになる。
唄うよりもボクシング部あたりに所属したほうがいいのでは? とは口が裂けても言えない、カヨ先輩の痛烈なボディブローにより物理的に潰された青山を尻目に、俺は胸ポケットにいれたままの携帯を気にする。
待ち受けのデジタル時計は九時を少しだけ過ぎていた。勉強を教わるのは一応二時間の予定だったはずだから、もうそろそろ登坂さんは帰る頃だろう。
店員が飲み放題のラストオーダーを取りにやってきて、会長が二次会の話をし始めた。俺は二次会不参加を伝え、トイレに行くフリをして廊下で携帯の電話帳から小夜の番号を呼び出す。
――うーん、なんて理由でかけよう。
いや、別に青山に言われてちょっぴり不安になったわけじゃないし。シスコンのアニキの恋人にとって、小夜のポジションというのはどう思うものなんだろう――とか考えて怖くなったわけじゃないし。。
そう、帰るコールと、夕飯の埋め合わせにアイスでも買ってってやるぞ、って話をしたいんだ。
「……あれ」
そんな結論を導き出して電話ボタンを押したが、コール音が鳴り続けるばかりで、一向に出る気配がない。
『ただいま、電話にでることができません。ピーッという発信音の』
仕舞いにはそんなメッセージまで流れ始め、俺は通話を切った。
「……いや、大方マナーのままどっかに置き忘れてるんだ」
中学生の小夜は携帯を学校に持っていけないから、普段は居間に置きっぱなしだ。今日もきっとそうだろう。
――「大丈夫なわけぇ?」
間延びした青山の声が脳裏に浮かぶ。
だ、大丈夫だっつってんだろ。
「ただいまー」
玄関に入ってすぐ、アニキの靴がないことに気付いた。代わりに、見た事のない男物の靴がそろえて置いてある。登坂さんか。
腕時計を確認したら、もう十時を過ぎている。予定より随分と長い滞在だ。
「キャー、だ、ダメー!」
訝しんだ刹那、小夜の悲鳴が居間の方から聞こえた。
「小夜!」
思わず靴を脱ぎ捨てて、廊下を走って居間の扉を勢い良くあける。
目の前に飛び込んできたのは、汗だくで髪を振り乱した小夜と、同じく息を切らせた登坂さんの姿。
「あっ、おかえり仲兄ぃ」
「……おかえりなさい、仲也くん」
二人が振り返って、それぞれ俺におかえりを言った。
呆気に取られた俺は、ただいまも言わず、見ただけで分かりきったことを思わず聞いてしまう。
「な……なにしてんだお前」
「うえ? ゲーム! テニス!」
「……どんだけ白熱してんだよ……」
二人の正面にあるテレビの画面には、緑色のコートの上に、小夜を模したデフォルメキャラがサーブの体勢のまま動きを止めている。
「しかも二人して」
「ついうっかり」
見慣れない小夜の対戦相手は、多分登坂さんのそれか。態々作ったのだろう。登坂さんは少し気まずそうに苦笑いをしながら、立ちっぱなしも妙だと思ったのか、アニキ用の黒いリモコンをテーブルに置いてソファに座り込む。
結局この人がどういう人なのか一向に掴める気がしない。
「先生初めてらしいのにすごく上手いの! 仲兄ぃより強いかもよ!」
汗で張り付く前髪を、腕でぬぐうようにしながら小夜がいう。
ゲームで汗だくって……小学生か。
「いいからさっさと風呂入ってこい。もう十時過ぎてんだぞ、早く寝ろ」
「えー仲兄ぃもやろうよ」
「えーじゃない、明日朝から部活なんだろ」
ぶーぶー文句をいう無理矢理居間から追い出し、こっちの方はどうしようとゲームの片付けをしてくれている登坂さんの方を振り向く。どう相手するべきか分からん。
「あの」
「あ、先生、仲兄ぃのことは気にしないで待ってていいからね!」
とりあえず声をかけねばと口を開いたと同時に、部屋から着替えを抱えて小夜が出てきて登坂さんに向かってそんな事を言った。
「……待ってる?」
俺の疑問符に答えず、小夜はさっき俺に言われた通りさっさと風呂に行ってしまった。
待ってるって、アニキ……しかいないか。
「いや、別に大翔を待ってたわけじゃ。小夜ちゃんが一人で心細そうだったから……仲也くん帰ってきたし、もうお暇するね」
思わず見つめてしまった俺に弁解するように登坂さんは言って、鞄を持ち上げてソファ立ち上がった。
「え、あ、いや、あの、そんな急いで帰らなくても」
帰ろうとする登坂さんを、俺は思わず引きとめてしまった。なんとなく、ここで帰してしまったら、風呂上りの小夜に蹴っ飛ばされる気がする。
アニキを待つのと一人で留守番の小夜の心配、どっちが建前で本音だか分からないが、小夜の相手をしてもらって、無碍に帰すわけにも行かない。
「よ――よかったら、お茶でも飲んでってください」
咄嗟に思いついたそんなことを言って、登坂さんの返事を待たずに台所に向かった。小夜のやつ、ゲームばっかやって、飲み物もおやつも出してなかったのか。
「って麦茶切れてるのか……あったかいのでもいいです?」
「うん……ありがとう」
居間の方を伺い見ると、登坂さんはソファに戻ったようだった。一人にしておくのもなんなので、ヤカンを火にかけて居間に戻る。
「なんかごめんね、ご飯までご馳走になっちゃったし」
「いや、それは俺が連絡ミスして余ってたんで……お口にあったならいいですけど」
「それはもちろん、とっても美味しかったよ。俺一人暮らしだから、家庭料理なんて久々だったよ」
「そうなんすか」
その相槌で、うっかり会話が途切れてしまった。
なにか話題を探したら、結局浮かぶのは奴の顔しかない。
「……アニキ、遅いですね」
帰宅予定時刻はホワイトボードに書いてなかった。アニキのことだから、下手すると朝帰りだってありえる。
「大翔のところ、人気ゼミだけど、内実結構ブラックだからねー。アルハラひどいらしくてなかなか帰れないんだよ」
「そうなんだ……」
正直アニキが大学で何をしているのか、俺はよく知らない。院に上がってより一層、会話が減ったし。
しかしまた会話が途切れた。次の話題に悩む。
いつから、とか、どうしてアニキを、とか、アニキのどこが、とか、聞いてもよさそうな事は色々ある気がするが、会話が途切れて微妙に気まずい空気の中、いきなり切り出していいものか。小夜ならぐいぐい聞きそうだが。
「あ――やかん」
誤魔化したみたいに呟いて、俺は台所に戻る。人知れず頭を抱えた。早く帰ってこいアニキ。こんなに奴が帰ってくるのを待ち望んだのって、多分小学校の、しかも低学年以来だ。帰ってこなきゃいいのにと思ったことは幾度となくあるが。
「ゲームでもすべきか……いや、小夜じゃあるまいし」
お茶を淹れて戻る。よし、第二ラウンドだ。
「粗茶ですけど、どうぞ」
「ありがとう」
登坂さんは笑顔で湯のみを受け取って、一口飲んだ。ふと思い出したように、立ちっぱだった俺を見上げる。
「仲也くんは、あんまり大翔と似てないよね。小夜ちゃんと大翔はパッと見で嗚呼兄妹だな、って思うけど」
「え、ああ――よく言われます。俺だけ親父似らしくて」
小夜は間違いなく母さん似で、アニキもどちらかと言えば母さん似だろう。どこがどう似てるとか言えないけど。
俺はといえば、若いころの親父にそっくりらしくて、将来あんなになるのかと思うと色々不安になる。髪とか髪とか……。
「声は似てるらしいんですけど。電話とかだと特に」
「あー言われてみれば」
登坂さんは納得したのか、笑って頷く。
「小夜ぉ、お前電話でろよー」
がちゃんと鍵の開く音に続いて、アニキの間延びした声が玄関から聞こえた。のしのしという時間をまったく配慮してないような足音と、ガサゴソとビニールの音が近づいてくる。
あ、と、一瞬登坂さんの顔が綻んだ。
その表情を見て、ああ、ホントにこの人はアニキなんかが好きなのかと、分かった気がした。納得はしてない。
「兄ちゃんがせっかく、アイスなにがいいのか電話してやってんのによー」
ぶつぶつ言いながら、入ってきた居間の明るさに、アニキが目を細める。と、そこでようやく登坂さんの存在に気付いたようだった。
「って、なんだ修、まだいたのか」
ふらふらとおぼつかない足取りでソファまで歩いて、登坂さんの隣に崩れ落ちるようにどっかりと座り込んだ。普段偉そうなこと言ってるが、何気に酒はそれほど強くない。
「おかえりなさい。小夜ちゃんならお風呂だよ。思ったより早かったね」
「……まだ続いてたけど、ドクターの新島さんが逃がしてくれた」
「あー、あの人」
俺には分からない会話を交わしてから、アニキが俺の方に顔を向け、アイスが入ってると見えるコンビニ袋を掲げた。
「仲也、水くれ。あとこれ冷凍庫」
「その前にただいまだろうが!」
やっぱり帰ってこなきゃよかったのに。
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