「小夜、こいつがお前の家庭教師してくれる、修な。ちなみに俺ら今付き会ってるから」
頭を殴られたような衝撃、というのはこういうことか。
目の前に起きた事態を把握できず、ただただ俺はぽかんと四つ年上のアニキと、その隣に座る人を交互に見つめた。
「はじめまして、登坂修です。よろしくお願いします」
紹介された登坂さんは温和そうな笑みを浮かべ小さく頭を下げたが、先ほどのアニキの爆弾発言についての否定も突っ込みも、フォローもなにもない。
未だ呆然としている俺の隣に座っていた妹の小夜は、テーブルの上の麦茶に伸ばしかけていた手を一度引っ込めると、登坂さんを見上げて小さく首をかしげた。
「……前に見た男の人と違う」
「なっ」
小夜の言葉にぎょっとすると、正面のアニキは顎をなでながらため息を吐く。
「あー、あいつなー、デートより小夜との約束を優先させたら文句言ってきたから別れた」
「えー、私のせいにしないでよ」
「ちょ」
「まあそれはともかく小夜、とりあえず教科書とノート、こないだのテストと次の範囲わかるやつ持ってこい」
「あ、小夜ちゃん、中学ならワークもあるよね? それもお願い」
「はーい、よろしくおねがいします」
「ちょっと待て!」
俺を置いてきぼりにして全速力で進む話に、思わず悲鳴のような声がでた。部屋に勉強道具一式を取りに行こうと立ち上がりかけた小夜の動きがぴたりと止まり、ポニーテールが遅れて揺れた。
「ちょっと待って、マジで」
全然理解が追いつかない。俺の気持ちを代弁してくれる突込みもない。むしろなんで普通に受け入れてるんだ小夜は。
「と、とりあえず最初っからもう一回やって」
「最初っからってどこだよ。修を出迎えるところか」
「マイナスから話はじめんな! この話の最初にお前がなんていったか聞いてるんだよ!」
涙目の俺にアニキが虫けらでも見るような目をする。普段ならこのクソアニキめと悪態をつくところだが、今はその余裕すらない。
「あー、『小夜、こいつがこないだ言ったお前の家庭教師してくれる修。ちなみに俺ら今付き会ってるから』、か」
「それだ!」
棒読みだったが、一字一句同じ台詞に、すかさず指を突きつける。
「お、お、男の人じゃねぇか!」
「人に指さすなって教わってないのか」
アニキはめんどくさそうに、登坂さんに突きつけた指を払いのける。一方登坂さんは苦笑いを浮かべていたが、構うものか。
「つーかなんでお前いるんだ。大学どうした」
「休講だよバカ。お前こそ学校行かねぇのか不良院生」
「ねーねー、喧嘩始めるならなら私教科書とりに行っててもいい?」
にらみ合う横で、小夜がうんざりしたような声を上げた。ちなみにド平日の昼間だというのに中三の小夜が自宅に居るのは、学校の開校記念日だからだ。
「いや待て小夜、お前も最初の台詞もう一編言ってみろ」
「えー、もう忘れちゃったよ」
などと言いつつ、小夜は顎を掻きながら天井を仰ぐ。
「えっと、前に見た彼氏とは違う、とかでしょ」
微妙に違うがまあそんなことはいい。
「前に見たって! お前知って、てかなんで俺に言わない」
「やー、だってちらっと見ただけだし。手つないでただけだったから、まさかなーって思ったし、まあいっかなって」
まさかじゃねぇよ、どう見たってガチじゃねぇか。男同士でそう手をつないで歩いてたまるか。女相手だって好きでもないやつとやらんわ。
……どっちにしろしたことねぇけど!
てか「まあいっかな」って、本当にいいのか? アニキが男に走ったんだぞ? まあいいかで済ませられない俺が狭量なのか? バカアニキを宜しくとか言うべきなのか?
どうしてうちの家族はいつもいつも極端なんだ。上はこんなだし下は大雑把すぎるし。
「ぐっ」
アニキにも妹にも言ってやりたいことが脳内を駆け巡って、ついに限界突破した。
「仲兄ぃ?」
立ち上がって居間を出て行く俺に、小夜が困惑した声を上げる。
「いいの? フォローしてあげなくて」
背後で登坂さんの心配そうな声も聞こえたが、かぶせるようにアニキが鼻で笑う。
「いーのいーの、どーせ母ちゃんのとこだ。あいつ一杯一杯になるとすぐ母ちゃんに泣きつくんだ。マザコンな」
うるせーシスコンのホモに言われたくないわ。つーか確認しそこねたけど別れた理由が『妹との約束を優先させたから』ってなんだよ。引くわ。
居間と和室を隔てる襖を開け中に入ると、仏壇の前に敷きっぱなしの赤い座布団に座り込み、ため息をついた。
「母さん」
りんを鳴らして両手を合わせ、仏壇の上に飾ってある遺影を見上げた。十五年前から変わらない母の笑顔がそこにある。
「あのバカアニキ……」
きっと今頃母さん、草葉の陰で泣いている。母さんが生きていたらなんて言っただろう。
――まあ、彼氏? それも結構かっこいい子じゃない。大翔、なかなかやるわね。
――そんなことより仲也。あなたの方はは浮いた話のひとつもないの?
「うっ」
いかん。亡くして十余年、妄想の母の言動すらまともに考えられなくなってきた。でも言いかねないなと思ってしまうのは、だんだん写真の面影に似てくる小夜があんなだからなせいだ。それでなくとも空しい行為なのに、何ゆえ更にダメージを受けるような言葉を考えてしまうのか。
「親父に連絡するか……」
脳内にすら俺のやり場のない衝撃を受け止めてくれる人がいない。単身赴任で九州にいる親父に告げ口したら少しは溜飲が下がるだろうか。親父なら俺に付いてくれる気がする。
いや、こんなこと聞いてすっ飛んで帰ってこられても修羅場になるだけか。それはそれでめんどくさい。
「ねーねー、お兄ちゃん」
携帯を握り締め悩んでいると、襖が開いて小夜が顔だけ出した。
「大兄ぃたちがケーキ買ってきてくれてるから食べようよ。お兄ちゃんの好きな栗のやつもあるよ? 早くしないと大兄ぃに取られちゃうよ」
そう言った笑顔はとくに、母さんに似ている気がした。写真でしか母親を知らない小夜自身には、恐らくピンとこないだろうが。
「栗のやつ、じゃなくてモンブランって言え。まあ……分かった」
携帯をシャツの胸ポケットに仕舞いなおし、和室を後にする。
居間ではダイニングテーブルの上でケーキの箱を広げ、登坂さんが皿を並べていた。アニキの姿はそこにない。
「修、コーヒーと紅茶どっちがいい?」
台所から、アニキの声だけが居間に飛び込んできた。
「どっちでもお構いなく。楽なほうでいいよ」
登坂さんは一瞬だけ考えるようなそぶりをしてから、台所を振り向いて答える。暖簾のむこうに、ジーンズの足だけが見えた。
「じゃコーヒー。小夜は?」
「いつもの! ストレートで!」
「つまり牛乳な」
暖簾をくぐって台所に入ると、アニキはコーヒーメーカーに水を入れ、インスタントコーヒーの缶を開けているところだった。
「……俺にも聞けよ」
「なしてお前だけの為に紅茶淹れなきゃなんねーんだ。コーヒーか牛乳にしろや」
淹れてくれるつもりはあったのか。俺は戸棚から人数分のマグカップを出して、小夜の物にだけ牛乳を注いだ。
「小夜ちゃんは何がいいんだっけ?」
「私チョコのやつ! んで仲兄ぃはモンブランで、大兄ぃはなんでも食べるよ。先生は?」
「んー、俺もなんでも食べるけど……じゃあショートケーキにしようかな」
居間の方から、すでに仲良くなったらしい二人の声が聞こえる。昔から小夜のやつはまったく人見知りしないのだが、だからって突然現れたような兄弟の、しかも同性の恋人に、もうちょっと距離感というか、緊張感というものはないのか。……やっぱり俺の器が小さすぎるんだろうか。
「つか、なんでだよ」
「あ? なにが」
できるだけ声を潜めた俺に、居間の二人を気にしていたアニキが、低い声で俺を睨み返してくる。
畜生、いつものことだがなんでこんな俺だけ扱いが違うんだ。
「ほら、高校のころは女子と付き合ってただろ、ほら、眼鏡のショートカットの人とか」
「あー、佐藤さんな、よく覚えてんなお前」
いや名前までは知らねぇけど。
「あれは向こうから告られたんだ。懐かしい」
「どうでもいいわ」
さらりと自慢をされた気がする。
腹の立つことにこの男はそれなりにモテる。家に呼んだりはしなかったが、『佐藤さん』以外にも片手にあまるぐらい、小夜に真顔で「大兄ぃはタラシなの?」と尋ねられるぐらい、経験を積んでることは俺でも知っている。というか、小夜のその発言のせいで家族会議になったから親父すら知ってる。
だからこそ、登坂さんの登場には驚いたわけで。
アニキはため息をついた。ゴポゴポと音を立てはじめたコーヒーメーカーに視線を落とす。
「小夜より可愛い子なんてこの世にはいないんだよなぁ」
「はあ?」
ふと脳裏に小夜の「タラシなの?」が蘇る。それに対する、このバカアニキの返答はなんだったか。
「他の女はつい小夜って呼んじまったら烈火の如く怒るし、デート中についでに小夜のもの買ったら不機嫌になるし、小夜との先約があるからってデート断ったらキレるし」
かちりとコーヒーメーカーのスイッチが切れる音がした。ドリップは続いているが、アニキは気にせずサーバーを引っこ抜いて、代わりに俺のマグカップを置く事で落ちるしずくを受け止めさせる。来客用のカップと自分のカップに、コーヒーを注ぎ始めた。
「その点男相手だとそもそも小夜と比べようと思わないしな。修は小夜優先にしても怒らないし」
ああ、思い出した。
――小夜が本命に決まってるだろ!
だ。
小夜みたいな女の子がタイプなのではない。小夜がタイプなのだ。
「ああ、なんで妹と結婚できないんだろな。世界一可愛い子を妹に持ってしまった俺たちって不幸だな」
深刻なため息をついたアニキに、呆れて物も言えなくなる。
さり気なく仲間にされたが、俺が彼女いない暦年齢なのはただ単にモテないだけで断じて小夜が可愛いからでは――言ってて空しい。
山ほどあった言ってやりたいことを、たった一言にする。
「……引くわ」
――アニキがシスコンを拗らせすぎてホモになった件について――
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