繋がる星と願いと

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2028年10月〜

 二度と目覚めたくなんてなかった。
 意識を取り戻し、再び絶望した輪華の枕元に、一体のぬいぐるみが置いてあった。三頭身にデフォルメされた黄色いライオンのぬいぐるみだ。どことなく間の抜けたその顔を、輪華は無感動にぼんやりと見つめ、義眼が辛く感じて目を閉じる。
 眠っている間に母が来て、おいて行ったのだろうか。
 最初の内はつきっきりでそばに居てくれた母も、もう仕事が休めないと三日に一度程度の頻度でしか病室に来てくれない。父もそうだ、こちらは二週間に一度ぐらいしか来ない。
 両親が必死で働かなくてはならないのは、輪華の回復に先が見えないからだ。リハビリもうまくいっていない。退院はいつになるか分からない。仕方のないことだ。輪華は自分に言い聞かせる。
――本当は日に日に憔悴していく輪華を見ていられなかった、という理由もあるが、当の本人は気づいているはずもない。
 しんと静まり返った病室で、目を閉じたまま相変わらず輪華は涙を流す。世界中に一人ぼっちになってしまったような気持ちだ。
 中学の同級生たちが一度見舞いに来てくれたことがあったが、誰もみな、高校生活を楽しんで生き生きと、輝いて見えた。入学直後に事故に遭ったために、輪華には友達もいない。学校に通ったのは数えられるほど、今はその見込みもなく、留年は確実だろう。
 皆行ってしまう。輪華を置いて。
「……また眠ってしまうのかい? 輪華」
 静かな、柔らかな青年の声がした。
 ハッとして輪華は目を開け、体を起こして病室内をきょろきょろと見回した。室内には人影はなく、輪華は一人きりだ。明るい外なんて見たくないから、窓は常にカーテンが引かれているし、そもそもここは六階だ。
「ここだよ、ここ」
 ついに幻聴まで聞こえ始め、いよいよおかしくなってしまったかと思った輪華に、青年は笑うような声で自分の位置を示す。
「……え?」
 声が聞こえたのは、輪華のすぐそば。ライオンのぬいぐるみは文字通り縫い付けられた笑顔でこちらを見上げ、筒状の手を振った。 
 輪華は驚きで声が出ない。
 しばらくライオンと見つめあっている内に、廊下の向こうからガラゴロと、朝食を運ぶワゴンが近づいてくる音と、近隣の部屋からにぎやかな挨拶の声が聞こえた。やがて閉めきっていた輪華の病室の扉にもノックがされ、昨日真っ先に病室に飛び込んできたナースが挨拶と共に顔を出す。
「おはよう輪華ちゃん、落ち着いたかなー? あら、お取込み中だった?」
 ナースが笑顔のまま、きょとんと首をかしげた。輪華が半分体を起こしたまま、枕元のライオンと見つめあっていたからだろう。
「今から挨拶をするところですが、僕のことはお気になさらず」
 恭しくライオンが答えた。ナースは「じゃあ遠慮なく」と言って、てきぱきと輪華の腕に刺しなおされた点滴の量を確認し、ベッドテーブルの上に朝食を置いた。
 輪華はナースがライオンに返事をしたことに驚いた。妄想や、幻聴の類ではないということか。
「今日は少しでもいいから食べようね」
 笑いながらそう言って、ライオンの件について一切触れることなく、ナースは病室を出て行った。
 静寂が戻り、輪華はテーブルの上の食事と、いつの間にかテーブルによじ登ったライオンを交互に見つめる。彼(おそらく)は右手を体の前でまげて、左足を半歩下げ、まるで貴族のように優雅な礼をしてみせた。
「初めまして、輪華。僕はシリウス」
「シリウス……? あの、その、あなたは……何?」
 なんと言ってよいものかすら輪華には思いつかず、失礼と思ってもそう尋ねた。
「驚いたかい? このライオンは、君の義手と同じ、サイバネティクス技術で、ここからかなり遠いところから動かしているんだよ。ぬいぐるみリンクっていうんだ」
 しゃべって動く妙なぬいぐるみは。特に気分も害した様子もなく、むしろ得意げにそう答えた。たとえ害していても表情はどこか愛嬌のある笑顔のまま動かないので、分かるかどうかも不明だが。
 言われてみれば、動くたびに低いモーター音がした。義手よりも機械そのものが小型だからか、言われてみてやっと気づくような、小さな音だ。
「遠いところから……?」
 わざわざ、一体何のために?
「君とお話がしたかったんだ。――さあ、そんなことより、先にご飯を食べてしまおうよ」
 ライオンはちょこんとトレイの横に座り込んだ。
 輪華は事態を飲み込めないまま、朝食を見下ろす。柔らか目のご飯とお味噌汁に、焼き鮭、卵焼きとほうれん草の胡麻和え。空腹のような気がしたし、一口も入らないような気もする。
 先ほどナースが「少しでもいいから」と言った通り、最近の輪華は食事すらまともにとろうとしていなかった。食べてもご飯を一口か、もっと少ない。点滴で栄養を取っているような状態だ。
「食べないの?」
 ライオンが尋ねる。不思議そうな声色であっても、それが責められているような気がして、しぶしぶ輪華は箸を取った。が、そこから動けない。今までどうやって食事をとっていたか、楽しんでいたか、全く思い出せなかった。
 なんとか茶碗を持ち、一口分にも満たないような程度のご飯を口に入れたものの、柔らかいとはいえ固形物の食べ方を忘れてしまっていて、咀嚼しても咀嚼しても、全く飲み込めない。吐き出してしまいたい、そんな衝動にかられるも、シリウスという人目がそれをなんとか押しとどめる。
「ねえ、このスープには何が入っているんだい?」
 シリウスが尋ねた。
 スープ? そこにあるのはお味噌汁だ。
 思い出したように輪華はお椀を取って、味噌汁でご飯を流し込んだ。なんとか飲み込めて、一息つく。疲れた。
「油揚げと、玉ねぎだよ」
 やっと彼の質問に答えると、ふうんとシリウスは口だか顎だか、そのあたりに手をやった。
「おいしそうだねぇ。どんな味がするんだい?」
「え、っと……」
 輪華もつられて箸を持ったまま顎に手を当てた。
 どんな味、なんて聞かれても困る。味噌汁は味噌汁だ。病院であるためか、家で飲んでいたものよりは塩分が控えめな気はする。
 思った通りにそう答えると、ふむふむとライオンは頷いた。そしてどこか羨ましげに、
「輪華のママも作ってくれるんだね」
 と言った。
「……しばらく食べてないけどね」
 思わず寂しさが漏れた。輪華の母の味噌汁は、ジャガイモが入っていることが多かった。最後に食べたのは、たぶん事故の日の朝だ。
「輪華のママは、どんな料理を作ってくれるのかな? 輪華が一番好きなのは?」
 涙ぐんだ輪華に暇を与えないようにシリウスが次々と尋ねる。それらの質問に、輪華は時々しどろもどろになりながら、やっとのことで答えていく。
 好きな食べ物から始まって、母親、両親のこと。
 何故だか知らないが、「どんな味?」と聞かれるのが多かった。ほうれん草の胡麻和えに至っては、これは何の種? と聞かれて、輪華は答えに困った。
 味を聞かれても、輪華は食べてすぐでなければ答えられない。箸を止める暇がない。
「ご飯食べれたかなー? あら、今日は頑張ったわね」
 ナースが様子を見にやってきた頃には、気づけばトレイの上の朝食を、半分ほど食べていた。
「やったね!」
 得意げに言ったぬいぐるみに、うまく乗せられた、とは思ったが何故だか悪い気はしなかった。
――以来、シリウスは輪華のそばで話し相手となった。
 リハビリが辛いと言えば慰めて励まし、幻肢痛を訴えれば、一緒になってさすってくれた。楽しかった話をすることがあれば、辛かった事故の話もした。
 けれどどうしても、陽奈の話はできなかった。口にすれば、何かが終わってしまうような、そんな気がした。
「輪華は本が好きなんだね」
 ある日、大人しく点滴の取り換えを見守っていた輪華に、ある日シリウスが詰まれた本を眺めてどこかしみじみ言った。
 暴れたときに一度片づけられたが、今また再びテーブルには本が積まれている。見舞いに来るたびに、輪華の母が持ってくるからだ。新しいものもいくつかあるが、ほとんどのそれらは家の中にある本をてきとうに持ってきたものだから種類は様々。ファッション雑誌に漫画、文庫本、幼いころに読んだ絵本まである。
「どうかな……普通だと思うよ」
 正直、未だに義眼に慣れない今の輪華は、違和感で疲れるから本にあまり触れていないし、義眼のことを思い出せば事故や陽奈のことを思い出すから、本当のことを言えば触れるのも嫌だった。
 それでも母がこうして来るたび本を持ってくるのは、やはり輪華が本好きであると思っているからなのだろう。
「輪華は、すぐ『普通』っていうね」
 シリウスがそう言って笑う。
「だって、ほかに言葉が見つからないんだもの」
 点滴の交換が終わり、輪華は山の一番上に積んであった絵本を手に取った。ライオンのぬいぐるみが中身を覗き込んでくる。
「どんなお話なんだい?」
 内容を尋ねられ、輪華は少し迷ってから絵本をそのまま読み聞かせた。幼児向けの絵本だから、そこまで長いものではない。留守番する女の子と、そこへ訪ねて来るさまざまな動物たちのお話だ。
 あっという間に読み終えると、シリウスは大げさに立ち上がって両手を叩く。とはいえ布の腕だから、パチパチではなくぽすんぽすんと変な音がした。
「輪華は読むのが上手だね!」
――りんかちゃんじょうずね!
 シリウスの言葉に呼応するように、脳裏に懐かしい声が響いた。
「陽奈……」
 そうそれは、二人がまだ幼稚園児だったころの会話だ。
 今よりも何十倍もたどたどしく絵本の音読した輪華を、陽奈はそう言って手放しで褒めた。きっと自宅で、そうやって幼い彼女は両親から褒められていたんだろう、拍手をして、それから小さな手で輪華の頭を撫でたのだった。
 当時の輪華はそれにとても驚いたけれど、同時に嬉しくって、くすぐったかった。
「輪華? 痛むのかい?」
 思わず両手で顔を覆った輪華に、シリウスは心配そうに顔を見上げた。
 違うの、大丈夫、そう言葉にしようとして、唇が震えてうまく言葉にならなかった。声を上げてワンワンと泣きたくなるのを、必死でこらえる。
 もう居ない。陽奈はどこにも居ない。
 悲しみに、寂しさに、押しつぶされてしまいそうになる。
「ねえ、輪華」
 声を押し殺して泣く輪華を、シリウスが腰のあたりから抱きしめる。
「君の悲しみは、君だけのものだ。誰にも理解しえない」
 小さなぬいぐるみだ、抱きしめる、というよりは、抱きつくに近い体勢だ。顔を覆うのをやめた輪華は、泣きながらシリウスを見つめる。
「でも、もしそれが君にとって重すぎるものならば、僕に話してくれないかな。全部とは言わない。少しだけ、僕にも背負わせてくれないだろうか」
 輪華はシリウスを両手で抱き上げた。ぬいぐるみに見えても、中に詰まっているのは綿ではなく、輪華の腕と同じ機械だ。そのためか、少しだけ熱を持ち、温もりがある。
「どんなことでも、聞くよ」
 輪華はシリウスを抱きしめ、そうして、今度こそ声を上げて泣いた。
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