――結局、私には他人の心を変えられない。
張り裂けそうな胸の痛みを伴ってやっと、自分の心を変えることが出来るだけ。
それがこの研究の結論。……なのだろうか。
慌しく窓をしめて姿を消した篠原留美を見送って、私は静かに深呼吸をする。
考えるよりも先に動けていた。 大丈夫。
振り向きざまに手の甲でわざと見えるように唇をぬぐう。汚いとまでは言わないが、流石に気分は悪い。
「三十六計逃げるに如かず、と」
「なっ、……おい!」
踵を返して背を向けた私の肩が、飛び掛るようにしてつかまれた。
小西敦哉の顔色は真っ白で、それを見ただけでやった価値はあったように思える。
私は挑発的笑みをそれに返した。
「お前、何のつもりでっ、こんな」
「別にはじめてだった訳でもあるまい」
過去に何人かの女性と付き合っていたのは香介から聞いて私も知っている。
一向に関係が進展しない篠原留美を吹っ切るため――冗談めかして香介は笑いながら報告してくれた。
間違ってると思いながら。やめて欲しいと思いながら。
彼は隣で優しいフリで笑うだけ。
「たかが唇がぶつかった程度で」
――そして私は、それを観察するだけだったはず。
肩をつかんだ腕を振り解く。意外にもあっさりと彼の手ははなれて、力なくだらんと落ちた。
ちらりとその後ろの玄関を見る。まだ篠原留美らしき影はない。
かなり動揺していたようだから、単にどこかで手間取っているだけか。
それともあるいは、香介を呼びに走ったか。
「そう取り乱す必要はあるまい」
それは困る。今香介に顔をあわせるわけにはいかない。
ここで走って逃げ出すことは簡単だ。だけどそれでは多分意味がない。
まだ足りない。壊せない。
どうすれば焚きつけられるだろう。どの言葉なら変えられるんだろう。
なんて言えば抜け出せるんだろう。この袋小路から。
全てを知っているからこそこのままで居たいと思う香介ではダメで。
何も知らない可愛そうなお姫様の篠原留美は私の存在の為に出来なくて。
蚊帳の外の私には端から不可能でも。
「よりにもよって、篠原に……」
――でも、小西敦哉なら……?
「……篠原留美に見られたのが、それほど致命的?」
彼女はまだ現れない。
私はあせる心を押さえつけ、平静を装って尋ねる。
「……当たり前だ」
「何故? 今まで平然と他の女と付き合ってきたのに?」
私が笑うと、小西敦哉は忌々しげににらんでくる
「私もその内の一人だと思えばいいじゃない。それなら、なんとも思わないんだろう?」
黙って睨むだけの彼を見ながら、私は小さく静かに、息を吐き出した。
白い吐息が見えなくなって、思わず呟く。
「……香介は君のどこがいいのだろう」
――それまで不敵な笑みを浮かべ続けていたのとは打って変わった諏訪美月の表情に、敦哉は驚いて眉を上げた。
――私は暗澹たる思いで、間抜けな顔をした小西敦哉の顔を見つめた。
「もし、万が一私が」
言いかけて、それは流石に不本意すぎだと思いとどまる。その手はもうさっき試みようとした。でも駄目だ。
「いや――、誰かが付き合ってくれといったら、また付き合うのか」
「はあ!? なんだよ急に」
「答えて」
小西敦哉は困惑しきった顔で私を見つめ、ふいとそらした。
「そういうのはもうしねぇよ」
「何故」
「……俺が好きなのは、篠原だから」
――何かが、終わった気がした。
「何故。今まではずっと付き合ってきたんだろう」
「何故って。お前なら……ってお前に言っても無駄か。お前にはわかんねぇよ。……こんなことする女だもんな」
やっと思い出したかのように、小西敦哉はごしごしと自分の唇をぬぐった。
「……他の奴じゃ駄目なんだよ」
小西敦哉はそう、うつむいて口ごもった。
――その言葉を求めて、わざわざ会いに来たはずだった。
その言葉だけが、均衡を崩せると信じて来たはずだ。
思わず、深く白い息を吐き出す。
胸が締め付けられるように苦しい。
『観察者』としての私が、『香介の友人』としての私が、悲しまずにはいられない。
――彼の気持ちが、届かないことを。
「……そうか、なるほど」
踵を返して、小西敦哉に背を向ける。
「後ろの彼女にもう一度言ってやったらどうだ。最も、途中から全部聞いていたかもしれんがな」
ギャチャン、さび付いた音を立て、背後でずっと開け放たれていたアルミの扉が閉まった。
「う、あ」
――香介は連れていなかった。
顔を真っ赤にして混乱している様子の篠原留美をみて、小西敦哉は狼狽しきってあとずさる。
「じゃなきゃ、次はお姫様を奪って見せるぞ」
――同性に愛情を抱く気持ちに興味がなくもない。
歩き始めながらそう脅してみせたけど、多分聞こえなかったと思う。
***
「ソース臭ぇ」
「当たり前だろう。ほら新島、お土産だ」
なぜか自信満々に袋を突き出されて、俺は訳も分からずにそれを受け取った。
駅の地下に入っているたこ焼屋の袋。
――この女、俺に雑用全部押し付けて遊びに行ってやがったのか。
文句をつけようと口を開いてから、思い止まって椅子から立つ。
「コーヒーいれるけど。飲むよな」
「ん、ありがと」
諏訪の机の上にあったマグカップ――赤字で上海と英語でかかれていて、はっきりいって俺にはよさが分からない上海土産だ――を取って、研究室の片隅に置いてある電気ケトルのスイッチをいれた。
「急に親切ね」
「ああ……お前の意味不明さに付き合わされるのももうないと思うとな」
ああ聞いたの、という小さな相づちを背中ごしに聞きながら、インスタントコーヒーの缶を手にとる。
「勘違いしないで欲しいんだけど」
何をするでもなくお湯が沸くのをただ待っていると、背後でぐるりと回転椅子を回しながら、諏訪が俺に向き直る。
「あ?」
「行きたくないとか決められないとかで先伸ばしにしてた訳じゃないんだ」
「ああ――」
弁解めいた言葉を口にするこいつを物珍しく感じながら、やっとスイッチの切れたケトルを持ち上げた。
「誰だって迷う」
ぶるぶると諏訪の机の上で奴の携帯が震える。いつもの研究中の気だるげな視線で諏訪はそれを見下ろすが、手に取る様子はない。携帯の震えは止まらない。どうやらメールではなく電話のようだ。
「電話だろ」
「うん」
「出ないのか」
「うん」
朝見たときからよりも大分いつものぼさぼさに戻った気がする毛先を人差し指に巻きつけながら、諏訪はただチカチカとカラフルに瞬く携帯を見つめている。やがて振動は止まった。が、またすぐに震えだす。諏訪は携帯を手に取る様子すらない。
「いいのかよ」
「うん」
「大事な用事とかじゃないのか」
「さあ」
気のない返事をしているうちに、また携帯は静かになった。
俺の訝しげな視線を受けて、諏訪は肩を竦めた。
「……次、かかってきたら出るよ。それまではまだ……心の準備が出来てない」
「もうかかって来ないかもな」
「それならもうそれで」
仕方がないねと携帯を手に取った諏訪は、小さくため息をついてから、コーヒーカップを置いた俺を見上げる。
「新島、一生のお願いがあるんだけど」
いやな予感しかしない。
「……それ何度目の一生なんだよ」
「人間は何度でも生まれ変わるのだよ」
無駄に真面目そうな顔で諏訪が言うと、連動したように携帯が光った。
***
「――怖い顔、ね」
静かだ。
いつもそう感じていたけれど、今日はさらに思える、香介の部屋。
この部屋に入るのは風邪を見舞ったとき以来か。大分前の話のように思える。
自分で鍵を開けて入ってきた私は香介へからかいの言葉を口にして、最後のつもりでテーブルにこの部屋の鍵を置く。
赤い鈴はちゃり、と小さく名残惜しそうな音を立てて私の手から離れた。
そして最後だと思いながら、初めてのような気分で香介に向き直る。
「敦哉に会ったんですか」
「さあ、どうだったかな」
咎める含みを持った問いを、私はとりあえずはぐらかす。かちりとあった視線があうと、動揺した様子の香介によってすぐに逸らされた。
「二人に何かあったのかしら。古典の君が、成り行きで想い人に告白してしまったとか」
我ながらなんて白々しい。『告白』の単語に、香介はぎゅっと自分の腕を抱きしめた。
「なあんてね。そう、会ったよ、小西敦哉にも篠原留美にも」
泣くかな、いや泣かないだろう。
どちらにせよ、泣かせるつもりで言ったのだし、終わらせるつもりでここに来たのだ。
「どうして、あんなこと……!」
悲鳴のような声をあげて顔を覆った香介を見下ろして、ほんの一瞬だけ、私が去ったあとの事の顛末を想像する。
しかし、私には関係ないことだから、一瞬の想像だけで終わらせる。
「……何も変わらないじゃないか」
慰めるつもりで言ったわけじゃないのに、思った以上に優しい声が出た。
「香介は小西敦哉が好きで、小西敦哉は篠原留美が好き」
昔も、そして今も。
「ほら、変わらないじゃない。もとより君は、篠原留美の好意のベクトルは眼中になかったろう」
優しげでも、紡ぐのは残酷な現実だ。この声色は、自分でもむなしく静かな部屋に響く。
変わらない。香介の思いは届かない。伝える気もない。
私の気持ちも彼に届かない。伝える気がなかったからだ。
「第一、君は私のせいのようにいうけれど。そもそも私なんかに人の心を変える力などないよ。変えることが出来るのは自分だけ」
そう、日を重ねるごとに無力感は募るばかりで。
振り返ればつらいばかりの気がしてくるけれど。
「だから」
――このままでありたかった。いつまでも彼の研究を続けていたかった。
変えたくなかったのは彼らばかりではなかったと、ようやく気付いた。
「だから私は君に小さな変化をあげる。些細な変化だけど」
香介がゆっくりと顔をあげるのを待って、膝をついて彼の手を握り締める。
「アメリカに行く。出張じゃなく、本格的に勉強をしに」
搾り出した声は少し震えていたけれど、彼の瞳に映った自分は、上手くいつもどおり笑えていた。
「君には、些細な変化だ。そうでしょう?」
すでに傷つききった顔をしていた香介の表情に、明確な変化は見つけられなかった。
一瞬手を握り返された気がするけれど、たんに私の手に力が入っただけかもしれない。
この手を離せば次はもうないと思うと、余計にこの冷え切った手を温めてやりたいと思う。
「そ、んな、急に」
「そうでもないよ。ずっと前から話はあった」
彼について知らないことはないと自負できるけれど、私について彼に伝えていないことは沢山ある。
そういう、一方的な関係だったから。
香介がはっと息を呑む音が聞こえて、それきり口をつぐむ。
未練たらしく握り締めたままだった手をそっと離す。
――引き止めたりしない。追いかけたりしない。
「さようなら、香介」
期待通り、呆然と私を見上げるだけの香介に、小さく別れの言葉を告げる。
「君との研究は……とても楽しかった」
一方的に言って、振り切るように彼に背を向けた。
逃げるように一度も振り向かずに彼の部屋を出た私は、そのままドアに寄りかかって天井を仰ぐ。
私のナイフは、彼の心臓に届いただろうか。
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