10.

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 大分早くついてしまった。
 となりで不機嫌そうな顔をする新島が、飛行機の発着を知らせる電光掲示板を見上げて「なんで俺が」と小さくため息をつく。
「いいじゃない、腐れ縁だろう」
「腐ってんならビニール袋に入れて燃えるゴミの日に捨ててくれ」
 冷たいその言葉に肩をすくめた。
「いいのか」
 低い声で新島は尋ねてくる。
「なにが」
――何がじゃねーだろ、分かってるくせに。
 ぼやく声は喧騒にさえぎられる。
 年の瀬のこの時期、国内外問わず空港の利用者は多く、一人で時間を潰すのはつらかったと思う。
 新島に無理を言わせて一緒に来てもらったってよかったかもしれない。
 うっかり二年連続一緒に研究室でクリスマスを迎えてしまった新島を見ながら、そう自己中心的なことを考えつつ、手荷物の中から封筒を取り出した。
――体も、心も、つながりなんていらないはずである。望んだのは彼の思考の理解だけのはず。
 しかし今私の手の中にあるのはそれとは矛盾したものであり、それでいてこの研究の一つの結果である。
「ん」
 それを、なおもぼやく新島の顔に突きつけた。
「お詫びに、あげる」
「ああ?」
 ドスのきいた声を出して、私から封筒をもぎ取って開ける。
「お前な」
「必要なくなったみたいだから」
「……お前な」
「二度も言わなくても聞こえてる」
 睨む新島に背を向けて、からからと重たいトランクを引きずる。
「いらねーよ。ってかそれ以前につかえねーし、つーかそのためについてきたわけじゃねーし。ってか人の話きいてんのか!」
「手続きすれば駄賃程度にはなる、でしょう」
 新島の文句全てを背中に受けながら、無意識にポケットに突っ込んだ左手が外気で冷えた携帯に当たった。
 先日香介からかかってきた時以来、使っていないそれだけど。
「諏訪?」
 震えた気がして、ポケットから取り出した。
――気のせいだった。当然だ、電源すら入っていない。
 新島がぽん、と私の肩を叩く。どうやら沈んだ顔をしていたらしい。
「ま、飛行機乗るころには忘れてるだろ」
「……つまりあとしばらくはこのままということ?」
 意地悪く言ってみたら、新島はう、と言葉を詰めて視線をそらした。なんだ、つまらない反応だな。
 なんだか余計に重くなった気分で携帯の電源を入れる。
「オイ」
 新島が低く小さく、声を漏らした。
 その視線の先を振り向いたと同時、

――けたたましく鳴り響くメロディ。

 携帯の画面に映る高遠香介の文字に、小さくため息をはいた。
「……何しにきたの」
 跳ね返って遅く追いかけてくる自分の声は、気だるげで冷たく聞こえた。
「見送りに? 恨み言を言いに? それとも」
 香介は携帯を耳に押し当てたまま、じっとこちらを見ている。
 走ったのか、わき腹を押さえていた。運動不足だものなぁ、とぼんやり考える。
「そもそも、誰に日時を聞いたの?」
 尋ねてから、分かりきったことだと自答した。
 今日の日程を知るのは、今私の後ろにいる新島だけのはずである。
 背後を睨むと、情報提供者はいやいやと手を振った。
「言っておくけど、俺は自分から連絡しちゃいねーぞ。そもそも連絡先知らねーし」
「……ふぅん?」
「まあでも、一応同じ大学出身なんだ。知り合いの知り合いの、そのまた知り合いの知り合いぐらいを辿ってけば、連絡先なんていくらでも見つかるだろ」
 してやったりと言わんばかりにやりと笑われて、思わず眉間を押さえた。
 このままの気分で飛行機にのるのも、悪くないと思い始めていたのに。
「手間だけど、それだけ本気だってことだろ、良かったな」
 じゃあ俺は行くぞ、とぽんと肩をまた叩いて新島は背を向け、片手をあげる。
 目だけで見送って私は携帯を閉じ、高遠香介に向き直った。
「話を、しにきました」
「少なくとも私にする話はないけど」
 素っ気無く返すと、香介は両手で自分のコートの裾を握り締めた。
「二兎追うものは一兎も得ず、だ。私にかまけるくらいなら、古典の君のところへ行った方がいい。まだ付け入る隙があるかも」
 心にもないことを言うと、流石に香介も『古典の君』の名につらそうな色を浮かべる。
 立ち上がり続けないほうが楽なことがある。なのに来てしまったか。どこまでも不憫な男だと嘲りたくなる。
「……あなたには、呆れを通り越して失望しています」
「失望?」
 心痛な面持ちの香介に、わざわざ恨み言を言いに来たのかと鼻で笑う。
 つらくて苦しいなら、向き合う必要なんてないはず。
 私は結局外側の人間で、その私に何の期待もしていなかったはず。
「何をしに来たの」
 再度尋ねる。
 曖昧な言葉なら、要らない。
 本心でないなら、欲しくない。
「あなたがどうしてあんなことをしたのか分からなくて」
 あんなこと? ――ああ、古典の君の話か。
「あなたに会う前も、あの後も、ずっと考えていました」
 コートの裾を握り締めたままの香介の話を、私は黙って聞き続ける。
「考えて、――考えたけれど分からなくて。思えば、あなたのことを僕は何一つ分かっていなくて」
 考えながら、言葉を探しながら香介は続ける。喧騒の中なのに、ここだけ切り取られたように静かだ。
 言葉を見失ったのか、一瞬彼は口をつぐんで視線を泳がせる。
 私は何も言わない。まだ言えない。
「えと、ちょ、ちょっと待ってください。走ったせいかまだ頭の整理が出来ていなくて」
「……いいよ。時間はたくさんじゃないけどまだあるから。ゆっくり考るといい」
 腕の時計を見ながら答えると、ほっとした顔をする。
「……急だったので。まだあなたが行くのは先だと思っていたんです」
 あの人と連絡がついて知ったのが、数時間前で。
 弁解するように香介は視線をそらした。新島も研究室にいる間は携帯に触らない人間だから、多分苦労しただろう。
――その上、彼はテリトリーの中でしか動かない人だったから。
「ここまでは、……敦哉に送ってもらったんです」
 思い出したように、呟くようにその名を呼ぶ。
「……確かに、敦哉も留美さんも、何も変わりません。……何も」
 そう言って香介は少し悲しげに微笑む。
――いっそ劇的に変わってしまえば、彼は少しは楽になれたのかもしれない。
 今更、どうしようもないことだけど。
 香介は長く深く、息を吐き出した。何かを覚悟したみたいに、私を見据える。
「でも、変わってしまうんです。あなたがいなくなったら」
 緊張しているのか、握ったコートの皺が深くなる。
「数日前まで、僕は幸せでした。自分が幸せだといえる自信がありました。敦哉がいて留美さんがいて、だから幸せだと思っていたけど、違ったんです。あなたもいなくては、駄目なんです」
 静かにはっきりとした言葉は、想像したよりもはるかに心地よく響いた。
「僕にはあなたを止める権利はありません。行かないでなんて言えません。でも、――いなくならないでください」
 でも私は、は、と短く息を吐いて笑ってみせる。
「勝手だね。それに矛盾してる。『行かない』で『いなくならない』なんて出来ると思えないけど」
 それに、と続けた。
「君の幸せに必要不可欠なことをしてきた覚えはないよ。『あんなこと』をした女をそばにおきたい理由なんてないだろう」
「僕は、あなたをまだ分かっていません。どうしてあんなことをしたのか。考えれば考えるほど見当違いなところにいく気がして」
 香介は天井を仰ぐ。
「もしかして、あなたは――」
 言いかけたそれには、期待のような疑いのような微妙な響きが混じっていた。
 香介は続きを言わなかった。私も言われなかったことに是も非もつけることはできない。
「正解が欲しいんです。だから、僕はあなたに――興味があります」
――それは二人の始まりの言葉。
「だから、たまにこちらに帰ってくるときでいいんです、だから――」
「タイム」
 言いかけた香介を手で制す。
「何、新島」
 横目で睨むと、「大変申し訳ない」と新島が両手を合わせた。
「……盛り上がってるとこ悪い。これ忘れてた」
 先ほど押し付けた封筒を握り締めていた。私はそれを見下ろして呟く。
「別に持ち逃げしたってよかったのに」
「頼まれたって誰がするかよ。俺は今年の正月こそ実家に帰るんだ」
 お前とは別の便でな! と吐き捨てるように言って、封筒を差し出す――香介に。
「え……?」
「ほら。こっちは急いでんだから、さっさと受け取ってくれよ。あんたのなんだから」
 半ば無理矢理、呆然とする香介にそれを押し付け、じゃあまた来年、と片手をあげて新島は踵を返す。あっちの方が早い便だっけ。
 それに「良いお年を」と返してから、封筒をあける香介を見ながらがしがしと頭をかいた。
――なかなか計算どおりにはいかないものである。
 中身は香介の名前で取った航空券だ。私の鞄の中にも、同じ行き先のものが入っている。
「……おきな、わ?」
 行き先の名を口にした香介に、は、と短く息を吐いてにやりと笑う。
「君も随分考えが浅いな。幾ら私だってこの年の瀬に渡米するわけないだろう。先方の都合もあるし」
 へたりと香介がその場に座り込んだ。チケットと私を見比べて、何か言いたいのか何も言えないのか、口をぱくぱくさせている。
「それで、『だから』なあに?」
「だ、――だから、その」
 気まずそうに視線を泳がせた香介は、一瞬うつむいてから私を見上げる。
「帰ってきてからでいいから、僕にあなたの研究をさせてください」
 真摯な瞳。真っ直ぐ見つめられて、私は始めて彼から視線をそらした。
「私がとんでもない女だってことぐらい、身にもって実感済みだろう。……一生かかるかもよ」
「本望です」
「ほんと?」
「はい」
「……即答するところがさらに疑わしいな。これまでの経験から言って。君は案外、適当に当たり障りのない、心無いことを答えるところがあるから」
 疑いのまなざしを向けると、心当たりがあるのか香介は言葉を詰める。困ったように手元のチケットに視線を落とし、そこの書かれる自分の名前を指でなぞった。
「何でこれ、僕の名前……」
「一緒に行きたかったから、ぐらいしかないだろう理由なんて」
 即座に答えた私を、恨みがましい目で見上げた。
「……もし僕が今日ここに来なかったら、どうするつもりだったんです」
「キャンセル料を払うだけ」
「用意もなにもしてませんけど」
「トランクの中に、君がうちにおいていた着替えが入ってる。他はまあ、現地調達できるでしょう」
 私の言葉に、はあと香介は盛大なため息を吐いた。
「この数年の『研究』で、君の年末年始の行動は、あの二人と初詣にいくことしかないのは把握済みだ。今年に限って他に大事な用事があるなんて、言わせないぞ」
 そう言って笑いながら右手を差し出す。
「さあ、いつまでそんなところに座り込んでるの。ほら、行こう」
 香介は一瞬迷ったような顔をしてそれを見つめる。
――しかたない。黙っていようかとも思ったけど
「あのね、――ずっと言ってなかったし私もこの間気付いたんだけど、『君の研究』なんて、実は大分昔に終わってたの」
 発言の意図を即座に汲み取り損ねた香介が、図らずも赤らんでしまった私の顔をぽかんと見上げる。
 一拍の間の後理解したらしい香介が私よりもさらに顔を赤くした。
――それは研究中心に回っていたはずの私の。
 外堀から埋めるなんてまだるっこしいことをしたけれど、結局言いたかったことはこれだけなのだ。
「じゃあ、もう僕には興味ないんじゃないですか?」
 意地悪っぽく香介が尋ねる。それににやりと笑ってから、
「研究し尽くしたことと、被検体に興味を失うことはイコールではつながらない。これからは、この研究がちゃんと発表できるものか、裏づけをするの」
「……かなわないな、美月さんには」
 真っ赤なまま苦笑して、彼は私の手をとった。




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『保健医と彼女』

 cast

 彼女    諏訪美月

 保健医   高遠香介


 古典の君  小西敦哉

 お姫様   篠原留美



 同僚    新島
 金ちゃん  金剛地太一郎

 研究室の後輩  真藤・矢部・その他大勢
 日照高校生徒のみなさん(友情出演)

 staff

イラスト
   くちなし

Special Thanks
   文芸創作部のみんな

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「――あの」
 搭乗手続きを済ませ、それまでただなすがまま黙って私のあとをついてきていた香介が思い出したように口を開いた。
「ん?」
「……その、あの……手が」
 まるでとんでもなく恥ずかしいことのように、顔を赤らめてうつむく。
 視線の先にあるのは、先ほどからずっと握ったままの私たちの手。
「ふむ。……嫌?」
 別に私は気付いていなかったのではないが、香介はそれどころではなかったのか今気付いたらしい。
「……いいえ、そうじゃなくって、その」
 きっぱり否定しつつ、しかし恥ずかしそうに――何が恥ずかしいのかよく分からないが――視線を泳がせた。
「その?」
「……こうして出歩くのは、初めてだと、思って」
 消え入りそうな、そして申し訳そうな声が返ってきた。
「なんだ、わざとじゃなかったのか。てっきり香介は私と手を繋いで歩きたくなかったのかと」
「えっ」
 からからとトランクを引きずっていた香介の足がぴたっととまる。
「……なんて、ね」
 すきだよ、なんて柄にもないことを小声で呟くと、彼は指を絡めるように手を握りなおして辺りを見回して確認したら、優しく短いキスで応えてくれた。


TRUE END「保健医と彼女」


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