8c.

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「篠原先生」
「るみちゃーん」
――放課後の職員室。
 名前を呼ばれ、留美は顔を上げた。少し困った表情で彼女の元にやってきたのは、懇意にして――顧問でもないのに――面倒をみている文芸部の部長である山谷辰也と、引退しているはずのその三年生、熊谷素子だ。
「どうしたの?」
「小西先生どこにいるか知りませんか?」
「印刷室のおば……先生に、監督の先生がいないと使っちゃダメとか言われちゃってー」
 口を尖らせて不満そうな素子が腕の中でずり落ちそうな紙束を抱えなおしたのをみて、敦哉を探す理由を即座に理解した。今日は彼らの部誌の印刷日なのだ。
 印刷室の主と言うべき事務職員は、言うことがコロコロ変わるところがある。
 先月は誰の監督がなくてもに印刷オーケーだったはずだ。
 その前の月は最初だけは顔を出したようだが、基本的に本来の顧問である敦也は放任主義だから、呼びに行かなければ多分現れない。
「職員室ではしばらく見てないなぁ……国語準備室とか、保健室には居なかった?」
「どっちにも居ませんでした」
「むぅ」
 辰也の返答に、思わず留美まで口を尖らせた。
 あ、と小さく声を上げて手をたたいた。
「じゃあわたしが監督するよ?」
「ホント!?」
「あたしの華麗な裁断機さばきを見せてあげる」
「えー、大丈夫?」
 教師と教え子とは思えない至極軽いノリで素子に受け答えして、留美は立ち上がった。
 ちらりと少し離れた敦哉の机に視線を走らせる。
 いつもどおりきちんと整理された無人のそこを見て、小さく「もう」と呟いた。

 ***

――その数十分ほど前のこと。
「こーにっしせんっせー」
「うおわああっ」
 わらべ歌のようなリズムの声に振り向いて、思わず敦哉は驚きの声を上げる。
「ま、前園?」
 一階の国語準備室の窓ガラスに張り付いた卒業生の名前を呼んで、取り落としてしまった本を拾い上げる。
 呼ばれた彼女は嬉しそうな笑顔を浮かべて、こんこんと窓ガラスをたたいた。
 あけろ、のジェスチャーか。
「久々だな。何してんだこんなところで」
 カラカラと窓を開けると冬の冷気が室内に入ってくる。
 元教え子は白い息を吐きながら、まん丸の瞳で敦哉を見上げた。
「おつかい。遊びに来たんじゃないよー」
 はあ、と思わず曖昧な返事をしてしまった。
 どうも幼稚園児を相手にしているような錯覚を覚えるが、相手はもう大学生のはずだ。
「校門で、黒髪縦ロールの敵の女幹部みたいな人が小西せんせのこと呼んでる」
「はあ?」
 窓枠に腕を置いて、敦哉は怪訝な顔で彼女を見下ろした。
『黒髪縦ロール』はまだしも、『敵の女幹部』のイメージが今ひとつ分からない。
 これでも文芸部の元部長なのかと表現力の乏しさを一瞬嘆きそうになってから、「誰だよそれ」と尋ねた。
「んー、『大学時代の天敵』っていえば分かるって」
「大学時代の天敵……?」
『黒髪縦ロール』『敵の女幹部』『大学時代の天敵』
 怪訝な顔のまま、あ、と小さく呟く。
――幼稚でつまらない男だな、君は
 ピンときた。

 ***

「なんだ、もう来たのか」
 初めて会った時――香介に彼女として紹介された時と同じように、諏訪美月は校門でふてぶてしく笑って見せた。
「高校の教員は意外に暇なんだな」
「お前が呼んだんだろ! 教え子まで使って!」
「あちらから声をかけてきたんだ」
 片手で使い捨てカイロをもてあそびながら、美月は敦哉の背後でぴょこぴょこ手を振って帰っていく少女を見る。
 思わず額を押さえた。
「立ち話もなんだ、近所にラーメン屋があるらしいじゃない。行こう」
「何で俺が。コウに用じゃないのかよ」
「香介を呼ぶならメールか電話する。君のは知らない。だからわざわざ尋ねてきたんだけど?」
 そんなことも分からないのか。そう言い捨てて美月は背を向けて歩き出す。
「おい!」
「二十分……いやラーメン食べるのに三十分ぐらいかな、それぐらい付き合ってくれるでしょう?」
 呼び止めれば一度だけ振りむいて、またさっさと行ってしまう。
 なんて勝手な女だ、と悪態をついてその背中を睨みつける。
 美月は全く意に介さずどんどん先に行く。
 追う理由は敦哉にはない。なのに、来ると信じて疑わない。いや、彼女にはどちらでも構わないのかもしれない。
 一方的。自分勝手。
 どうしてこんな女と香介が付き合っていられるのか。
「くそっ」
 校舎を振り返り、悪態をもう一度ついてからその背中を追いかける。
 何の為にかは知らないが、敦哉にわざわざ会いに来るだけの意味があるのだろう。
 ここで、自分が彼女を嫌いだからという理由だけで無碍にするのは人としていけない気がする。あれでも、親友の恋人なのだし。
――変なところで律儀よね
 脳裏に浮かんだ留美の声に、全くだと返した。
「いらっしゃいませー」
 ラーメン屋の店員の声に迎えられながら、促されるままにカウンターにつく。湯気で曇った眼鏡を外して拭いた。
「チャーシュー麺と餃子」
「早っ、……あー、みそで」
 ビールのポスターを物欲しげに眺めた美月を睨んで、で? と尋ねる。
「何が?」
 口元に薄い笑みを浮かべ、美月は小さく首をかしげて振り向く。
「何がって……」
「高校の国語教師ともあろうものが、人にきちんとものを尋ねることもできないのか。これでは日照高校生の国語力とやらも大したことないようだな」
「なっ」
「いや、違うか。小説で文脈を読んで登場人物の心情を読み取るように、日常生活でも少ない単語で情報を少なくし、生徒たちが空気を読める人間になれるようにと訓練しているのだな。これは恐れ入った、教師の鑑だな」
「お前、おちょくってんのか」
「ここで今さら確認しなければならないとは、君は空気が読めない男だな」
 思わず立ち上がりかけたが、漂ってくるラーメンの匂いがそれを踏みとどまらせた。
 授業が終わってすぐの時間帯だが、意外にも店内に生徒の姿はない。
 この店が生徒たちでにぎわうのは大抵、運動部の部活が終わる時間帯だ。
 でなければ敦哉がのこのこと美月について来たりしない。多くの生徒に目撃されて、あらぬ噂をたてられるぐらいなら死んだ方がマシだ。
 カウンターに肘をついて、小バカにした目で笑う美月を睨む。
「結局、何の用なんだよ」
「お友達に会うのに、用がなくてはいけない?」
「お友達ぃ?」
 白々しい台詞。
 完全に嘘だ。
 何故なら彼女は香介から紹介されてから割りとすぐの頃に、はっきりと「君が嫌い」と宣言したし、敦哉も敦哉でそれに「俺もだ」と同意している。
 香介か、彼女と同じサークルだった留美を挟まなければ二人の間に関係などなく、お互いの連絡先も知らないし必要性を感じない。
――高校、大学ときて職場まで一緒か。いっそ気持ちが悪いほどの仲良しだな
 就職が決まったとき、そこまで言われた女と仲良くするほど敦哉は心が広くないのだ。
 腹の内を探りあうように睨みあって――美月はニヤニヤしていたが――いるうちに、ラーメンと餃子が目の前に置かれた。
 先に動いたのは美月だった。割り箸を差し出し、餃子を敦哉の側にわずかにずらす。
「餃子、食べてもいいよ」
「いらねーよ」
 箸だけ受け取って餃子の皿を押し返し、自分の丼を持った。
「まだ君は篠原留美のことが好きなのか?」
「ぶほっ」
 最初の一口と同時の問いに、思わずむせた。
 げほげほと何度も咳き込んで、グラスの水を何とか飲みほす。だん、と勢いよくカウンターに置いた。
「なっ、なななななななにをいきなりお前はぁっ!?」
 餃子のタレにラー油を数滴落としながら、美月は冷たくふぅんと呟いた。
「顔真っ赤。その様子じゃそのようだな」
「わっ……悪いかよ」
「別に」
 餃子に集中しているかのように、美月の顔には先ほどの笑みはない。
「告白しないのか」
 ぽつりと落とすように、彼女は問う。
「こ、こくは、っ、お前に関係ねーだろ」
「すまないできないんだったな、臆病者だから」
 また嫌味ったらしくにやりと笑って、美月はラーメンを食べはじめる。敦哉は口をパクパクさせてから、無理矢理自分も意識をラーメンに戻した。
 無言でしばらくずるずると麺をすすってから、口をひらいたのは敦哉のほうだった。
「……そんなこと聞きに来たのかよ」
「そうといえばそう。未だに幼稚な気持ちをズルズル引きずっているのかと笑いに来た」
「お前、ホント、……消えてしまえ」
「まあ、そうつれなくしてくれるなよ。そう遠くないうちに消える」
 留美を相手にするときとは違って、心の底から出てきた言葉はやんわり受け流された。
 暴言を吐かれても崩れない緩やかな笑みはある意味香介と同じだが、底意地の悪さが仮面から滲み出している。
「君に興味がある」
『僕に興味があるんだ、って』
 笑顔のまま告げられた言葉が、脳裏で記憶の中の香介の声とダブる。
 それは確か、二人が付き合いだしたきっかけの――
『なんだよ、それが告白だっていうのかよ?』
『うん、そうみたい』
『好き』じゃない。ましてや『愛してる』なんて感情はない。
 好奇心と興味――諏訪美月が男性と付き合う理由はそれだけだと。
 幾人もの男が泣かされたという噂とその派手な容姿から、魔女だとか陰口を叩かれていたのは学部の違った敦哉でも知っている。
「香介のことは大体把握した。だからもういいかなって」
『やめといたほうがいんじゃねーの』
『噂は噂だよ』
 香介は笑って聞き流していたけど。
「っ」
 静かに箸を置いて席を立ち、敦哉は伝票をつかんだ。
 あ、と驚いた声を上げて美月も立ち上がり、彼の手からそれを取り上げる。
「私が誘ったんだ。私に払わせるべきだろう」
「いい」
 きっぱり断って、財布から千円札を出して押し付けた。
「多い……!」
「ごちそうさまでした」
「あ、こらっ」
 美月には目もくれずにカウンターの向こうでちらちらと成り行きを見守っていた店主に挨拶して、敦哉は店を出た。
 会計の為にすぐには追ってこれない美月に少し安堵して、早足で高校へと続く坂道を降りていく。
「だからやめとけって言ったのに」
 香介に今の出来事を話すべきか、否か。
 ぐるぐるとその事ばかり考える。
 帰宅部の下校ピークは過ぎたらしく、校門には誰もいない。雪が薄く積もったグラウンドにも部活動の生徒はいない。皆校内で練習しているのだろう。吹奏楽部や軽音の練習する音が逆に寂しくなるほど賑やかに聞こえた。
「小西……敦哉!」
 校門を通り抜け玄関への階段に足をかけた時、背後から呼び止められた。
 振り向かなくとも分かる。――美月だ。
「お釣り」
 恐らく小銭を握りしめているのだろう拳を突きだした。走ってきたのだろうが、少し髪型が乱れている程度で、息も上がっている様子がない。
「いらねーよ」
 ぶっきらぼうに返して、玄関の扉に手をかけた。
「三百五十円だぞ? 十円や二十円ならまだしも、安月給の君がおざなりにしてよい金額ではないだろう」
「安月給は余計だ」
「三百五十円を笑う者は三百五十円に泣くぞ」
「笑った覚えはねぇよ……」
 盛大なため息を吐いて、敦哉は扉から手を離す。
「分かったから、もらうから、さっさと帰れよ」
 振り向いた敦哉に、満足そうに彼女は拳を突きだしたまま近づいて――途中で立ち止まる。
 コの字型に二人を囲む校舎をぐるりと見回して、小さくふむと呟いた。
「ほら、よこせ」
 敦哉は彼女に近づきながら、手のひらを差し出す。
――心なし、彼女の瞳が光った、気がした。
「変わったつくりの校舎だな」
「そうか? まあ近所の高校とは大分違」
 ぱん、と乾いた音を立てて美月の手が敦哉の手のひらを叩いた。
「っ」
 硬貨が手に食い込んで、鈍い痛みに一瞬言葉をとぎらせる。そのまま手首をつかんで引き寄せられた。
「ぇ」
 ぶつかる衝撃。
 柔らかい感触。
 とっさに左手が彼女の肩をつかむ。
 思考が、止まる。
「――敦哉!」
 空から降り注いだ声に、ハッと我に返った。
 声の主を探す前に美月を突飛ばし返し、感触の残る自分の口元を押さえる。
「お前……っ」
 美月は何事もなかったかのように軽く頭上――校舎の二階を見上げる。
――右手の校舎の二階、渡り廊下の横にある、印刷室。
「ちょ、……ちょっと何やって……」
 開け放った窓枠にはりつき、留美が色を失った顔をしている。
 彼女の背後には敦哉が顧問を勤める文芸部員も驚いた顔で二人を見下ろしていた。
――見ラレタ
 愕然として立ちすくむ。
 時の止まった空間で、美月だけが一歩進み出た。
「お久しぶり、篠原さん。諏訪だけど、覚えてる?」
 ハタと留美が彼女を見下ろした。
「あ、あっ、諏訪さん? 何で諏訪さんが……あ、いい今、そっ、そっち行くから! 待ってて!」
 ばたばたと慌しく窓をしめて留美は姿を消す。
 困った顔の教え子たちの顔をまともに見られずに、敦哉は思わず顔を伏せてただ立ち尽くした。


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