――もう別れましょう、という声が風に乗って聞こえた。
私はその時、丁度篠原留美がかっ飛ばしたテニスボールを探しに、部室であるプレハブ小屋の前をうろうろしていた。
――忘れもしない大学二年生の五月、最初の週の金曜日。
一瞬コートの外に気をやった彼女が、我に返ってボールに反応したのは流石だと思える。が、どうしてここまで飛んでしまったのか。野球でもあるまいし。
タオルを取りに行くついでだからと安請け合いしたら、ボールはかなりの力で飛ばされたようで、全く見当たらない。
もしかしてフェンスどころか部室すら飛び越えたのかもと憂鬱になりながら、プレハブ小屋の裏に回り込もうとした時のことだった。
――私の横を泣きながら走り去って行ったのは、サークルの会長だった。
「あ」
私の目の前には高遠香介。
気まずそうに私から視線を外し、背を向け、逃げるように走り出す。
まず最初に思ったのは、『意外』だった。
会長に恋人がいるのは知っていた。しかし彼だとは思っていなかった。
高遠香介は誰にでも優しい。そしてみな平等に、冷たい。
彼の周りには簡単には踏み込めない線があり、その心の深淵を覗き込めるのは、高校からの付き合いだという篠原留美、そして――時折部室の前で二人のサークルが終わるのを待っている、あの眼鏡の文学部の彼だけ。
それが高遠香介に関する私の認識だった。
少なくとも会長はその域にまで達していない。
なのに、何故。
――それが、高遠香介に興味をもった最初。
***
「まず、爪が伸びていると気づいただろう?」
「……で?」
「すると意外と手先が荒れていることにも気づく」
「ふむ」
「ケアしようとハンドクリームを取ったら、化粧箱に使ってないマニキュアを見つけて」
「へぇ」
「で、せっかくだから使ってみようと塗る」
「……うん」
「マニキュアは乾くまで時間がかかるし、手先だけ気を使ってもなと、他の部位も気になってくる」
「……ああ」
「まあえーっと、それで」
「それで?」
「こうなった」
「零点。長いくせにオチがねぇ。――遅刻の言い訳がそれかよ。つか魔女かお前そのカッコ」
吐き捨てるように新島はそう言って、興味なさ気にすぐにパソコンに視線をもどした。
「そんなことないですよーう。先輩とっても可愛いです! いつもそうしてればいいのにー」
すぐさまフォローを返したのは、研究室で私以外の唯一の女子の矢部だ。いや、下手をすると、私を含めても唯一の女子かもしれない。
そう? と小首を傾げて見せると、久々におろして巻いた毛が視界の中で揺れた。
「可愛いかあ? 普段の干物姿見てたらギャップに引くだろ、女ってコエー」
「干物姿は幾らなんでもひどいですよ新島さん。常時賢者タイムとか、そういう表現の方がいいんじゃないですか?」
「お前のほうがひでぇよ真藤」
――決意の朝、隣に寝ていたはずの香介はもういなかった。
テーブルの上に置いた土産のマグを忘れたまま。
一体何をしに来たのか、問おうと思って携帯を開いたら、
『せっかくのお土産を忘れました。悪くなったらいけないから、一人で食べてもいいですよ』
という見当違いなメールがすでに届いていた。
「デートなんですかあ?」
矢部の問いに、私は曖昧に笑って「まあそんなところ」と答える。
夕方のアポはとって居ない。下手すると待ち伏せに近いことを実行するつもりでいる。
「今の男はそういうカッコ嫌いなんだと思ってたな」
新島がぽつりと呟く。私は腰に手を当てて彼が言うとおりに不敵に魔女っぽく笑って見せた。
「長い付き合いだというのに心外だな新島。私が男の好みに合わせる人間だと思っていたのか。さっきも言った通り、久々に興が乗ってこうなっただけ。コテもたまには使ってやらないと」
「……そりゃ失礼した」
心底あきれたといわんばかりの顔で、新島がこちらを見上げた。
「どうでもいいけど、まだ教授に返事してねーのか、アメリカ行きのアレ」
「あー、怒ってた?」
「てた。はぐらかすのもいい加減にしろよ、今日だって来るのおせーしよ!」
「はは、遅刻はごめん。うん、まあ……そろそろ決断しようと思ってたところ」
新島は眉をひそめる。
後ろでわいわいと『ひどくない普段の私のひどさの表現方法』について議論していた後輩が、ぴたりと雑談をやめた。
「決めたのか?」
「いや、思ってただけで決めてはないよ。私なりに色々考えて、考えたけど今ひとつ現状打破の策が思いつかなくて」
どうしたら高遠香介の世界を壊せるだろう。
あの強固なつながりを、外側の私が。
それだけをずっと考えてきた。
「アメリカに行くのも一つの手だけどね。それは最終手段かな」
今の高遠香介の世界から私が消えても、多分何も変わらない。
私がいなかった数年前に戻るだけだ。
鞄からパソコンを取り出して起動する。
「ま、とりあえず目の前の仕事を片付けながら、もうちょっと考える」
――彼の世界の一番弱いところ。
一番不安定なところ。
「久々ってことは、昔はよくああいう格好してたんですか?」
「ん、んまあ、ゼミ入った頃まではな。たまーに気合入れるときにああやって髪巻いて化粧ばっちりしてたんだよ、あいつも昔は」
「へー」
「邪悪なオーラが漂うから、混んでる食堂とか一緒に行くと人がどんどん離れてったもんだ。見ものだぞ」
「……それはすごいっすね」
「結構有名だったんだけどなー、その話。秋山ゼミの魔女って。学部外にも広まったりして」
新島と後輩の話を無視しつつ、思い出してポケットをまさぐる。出てきたパステルカラーのクリスマスカードを力いっぱいぐしゃりと丸めると、ゴミ箱に投げいれた。
かん、と軽い音を立てて底でバウンドしたゴミは、飛び出すほどの力もなく再び底へと吸い込まれていった。
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