8b.

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「……やっぱり、それ……返して」
「だろ」
 どこか勝ち誇ったように言って、新島が箱を紙袋に戻して突き返す。
――返してもらってどうするのか。
 受け取ってしまってから自分自身に尋ねる。
「新島」
「あ?」
「どうすればいいと思う」
 何を、とは新島は聞かなかった。
「自分の気持ちぐらい分かるだろう」
「気持ちは変わらない」
「だったら」
 紙袋を指差した。
「そいつのことだけ迷うんだったら、それを買った時の自分の気持ち通りにしたらいい」
 袋を見下ろす。
 数分ぶりに私の元へ返ってきたそれは、さっきよりもずっしり重たく感じた。

 ***

 ちらちらと雪が降っていた。
 寒いのを言い訳にして、隠れるように私より背の高い校門によりかかる。
――日照高校、香介の職場。
 部屋を尋ねる気にはなれず、メールも電話もすることができなかった。
 迷惑だとは分かっていても、他に思い付かなかった。
 それに――見てみたかった。彼の職場を。
 身震い一つして、ポケットに両手を突っ込む。
 日もくれかかって薄暗いこの時間帯、帰る生徒は少ないようだ。
 たまに校門を通りすぎる生徒が、私を怪訝な顔で見てから歩き去っていく。
「あと一時間。……やっぱり三十分」
 自分で決めた刻限を伸ばしたり縮めたりしながら、私は両手をこすり合わせる。
 職員用らしい駐車場はすぐそばにあるけれど、職員用の出入口が私の真後ろにある生徒玄関と共用なのかは知らない。
 別にあるのならば――私は香介に出逢えない。
 そういう巡り合わせ。
「ねえ」
「……せいちゃん!」
 突然の呼び掛けと、それをたしなめる声。
 顔をあげると小柄な女生徒が、後ろのもう一人の女生徒に手を引っ張られながら不審そうに眉をひそめてこちらを見ていた。
「さっきからずっとそこに立ってるけど、変質者?」
 ずばっと空気を切り裂くような声。
 すみませんすみません、うちのせいちゃんが――。
 背後の女生徒がしきりにそう頭を提げる。
「だって小春、ホントにそうなら通報しないと――」
「……あらぁ、どうしたのー?」
 口を尖らせた彼女をたしなめると思われた女生徒の後ろに、聞き覚えのある声がかぶさる。
「金ちゃん?」
「美っちゃん……!?」

 ***

「っ……、大丈夫」
 激しく咳き込んだあとに、香介は心配そうに見上げた留美に弱弱しい笑みを返す。
「病院、ちゃんと行った?」
「うーん……熱は下がったんだけど」
 曖昧な笑み。
「行ってないんだ……」
 彼のその反応に、留美は深いため息を漏らす。
「行ってよ。行こうよ。むしろ行きなさいよ」
「……はい、篠原先生」
――こんこん、と保健室のドアが叩かれた。
「はい?」
 放課後に誰だろう、運動部が怪我したのだろうかと思いながら、香介が扉を開ける。
「……金剛寺先生?」
「こんにちは、高遠先生」
 同僚の美術教師、金剛寺太一郎。
 帰宅の途中だったのか、スーツの上にコートを着込んでいる。
「どうかしたんですか?」
 香介と彼は同僚とはいえそれほど親しい間柄ではない。話しかけられたら話す程度で、少なくとも放課後に保健室を訪ねてくるような関係ではなかった。
 誰とでもフレンドリーな留美ならば別だが……金剛寺の視線は一度も揺らぐことなく常に香介に向けられている。
 困惑していると、金剛寺は笑顔で右手の紙袋を持ち上げて香介に突き出す。
「知りませんでしたよ、あんないい彼女さんがいらしたなんて」
 その言い方には、確実に何か、嫌味的な含みがあった。
 促されて、香介は紙袋を受け取る。
 外資系コーヒーショップの紙袋だった。中には同じロゴのついた箱が入っている。
「あけてみてください」
――上海と英語で書かれた、マグカップ、だった。
 ハッとして顔を上げる。
 留美が不思議そうに隣にやってきて、箱を覗き込んだ。自分たちの背後の テーブルにある、職員室から拝借してきたコーヒーカップを見比べる。
『さっきからずっと見てるようだけど、マグカップほしいの?』
『うん。この前、保健室で使ってるの割っちゃって……でも今回はいいかな』
『ふぅん』
 その会話はいつのことだったか。
 遠い昔のことのように感じる。割ってしまったカップの話をしたのは、あの時のただ一度だけのはず。
「これ……」
「駅の方に向かったわよ?」
 香介の言葉をさえぎって、金剛寺は小さく首をかしげた。
「追いかけないの?」
「いえ……」
――追いかけたところで、今更なんになるだろう。
 言葉を濁して、香介は手の中の箱に視線を落とす。
 ふう、と小さく金剛寺はため息をつき、くしゃり、と前髪をかきあげた。
「――早く行け、高遠香介。あの子のことを一度でも大切に思ったことがあるなら、追いかけろ」
 普段とは違った低い声の、男の言葉。
――ちりん
 紙袋の底で、なにか丸いものが転がった。
「でないと絶対に後悔するぞ」
 紅い鈴。違う、キーホルダー。香介の部屋の鍵がついた。
「留美さん」
「うあい!?」
 始終不思議そうな顔をしていた留美が、突然呼ばれて間抜けな声を上げる。
「ちょっと留守番お願いします。金剛寺先生も、ありがとうございます」
 二人の返事を待たずに彼は保健室を飛び出す。遅れてうんと元気な留美の声が続いた。
「コウ」
 なのに、呼びかけられて一瞬、立ち止まってしまった。
 真剣な表情の敦哉に、射すくめられる。
「コウ、今ちょっと……」
「小西せんせー? ちょうどいいところに! この間借りた本のお話いたしましょー?」
「う、え? 金剛寺先生?」
 真剣な顔が一気に崩れ、困惑した顔で敦哉は保健室から顔をだした金剛寺と香介を見比べる。
 香介は苦笑を浮かべた。
「敦哉、ごめん」
 また後で聞くから、そう言い残して廊下を走り出す。
 金剛寺が背後で親指を付きたてていた。

 ***

――これでよかったのだ。
 香介には逢えなかったけど、カップは渡せた。
 彼の趣味にあう代物かは分からないけど、たとえ私からだからといって、叩き割るような人ではない。
 部屋の鍵も返せたし、丁度よかった。
「よかった」
 駅へと続く緩やかな坂を上りながら、自分に言い聞かせるように呟く。
「――さん」
 ふと、声が聞こえて立ち止まる。
「――訪さん」
 二兎追うものは一兎も得ず、だ。
 香介は私を追ってきてはならなかった。小西敦哉が欲しいなら。
 そのための別れなのに――。
「諏訪さん」
 白い息を吐き出して、肩で息をして、最近ロクに運動していないであろう彼は私の後ろにたどり着くなり、両膝に手をついて苦しげな声で私の名を呼ぶ。
「……諏訪さん」
 他人行儀に名前を呼ぶなら、追いかけてこなくてもよかったのに。
「最後まで、君は私の理解を超えるな。どうして追いかけてきてしまったの」
 私の声は外気に晒されて、自分でも冷え冷えとして聞こえた。
「――が、鍵が、入っていたから」
 香介の息は、まだ荒い。
 急に走ったためか、左手がわき腹を押さえている。
「僕も返さなくては……いけないと思って」
 ああ、そうか。
 自分が返すことばかりで、自分が返してもらうことを失念していた。
 でも。
「いらない。どうせ取り替えることになるから」
「取り替え、る……?」
「部屋をでることになるから、多分」
 大型トラックがガタガタと地面を揺らしながら横を通り過ぎる。
 風になびく自分の髪をかきあげて、私は白いため息を吐き出す。
「アメリカにいくことにしたの」
 香介は大きく目を見開いた。
「そんな……急に」
「急でもない。前々から話はあった。君に話してないだけでね」
 そう。こちらも全て伝えたわけではない。
「向こうの大学に、私の論文を評価してくださる方が居て」
 少し前まで、断るつもりでいた。
 香介がいたから。
「こちらに留まり続ける理由はなくなったから」
 思考とは裏腹に、口はいつもより滑らかに動いた。
 私は笑顔を浮かべ続けていられているだろうか、それが気になる。
 香介は呆然として立ち尽くしている。
「引きとめ、ないでしょう?」
 そこで漸く私の唇は動きを止めた。
 なんて無駄なことを聞くのだろう。
 香介は引き止めない。
 それが私が出した、彼の研究結果。
「……はい」
 ほら、ね。
「諏訪さん。手を」
 促されて、私は手をだす。
 ちりん、と小さな音とともに落ちてきたのは、青い鈴の付いた鍵。
 香介が持っていた。私の部屋の。
――いらないって、言ってるのに。
「いらな」
 言いかけた私の手を、香介が上からかぶせるように握り締める。
 暖かい手。寒い中走ってきた、暖かい手。
「どうだった、私」
 その手を見下ろして、私は呟くように尋ねる。
「今まで出会った女性の中で……一番好きでした」
『女性』の中で、か。
 多分それは、私が得られるなかで最上級の表現なのだろう。
「古典の君には負けるの?」
「……はい」
 その声は静かで、揺らぎがなくて。
 かつての、出会った頃のような、迷いはない。
「ごめんなさい」
 それが数年越しの、私の告白への返答だった。
「いや。……こちらこそありがとう、私の研究に付き合ってくれて」
 笑顔で私はその手を離す。
 なぞるように、心なし名残惜しそうに、香介の指が離れる。
「さよなら」
「……さようなら、お元気で」
 踵を返し、私は再び坂を上り始める。
 後ろは振り向かない。
 無意識に空を仰ぐと、ひらりと大粒の雪が私の頬へ落ちてきた。

――溶けたしずくが、頬を伝った。

 GOOD ENDING 「snow tears」


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