Wandering fish

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1.


――波の音が心地よい。
「まぐろが食いてぇ」
 波止場に座り、コンビニで買った肉まんを片手に足をぶらぶらと揺らしながら、黒滝孝秋はぽつりとつぶやいた。
「食べたことあるのか」
「ない。当たり前だろ」
 隣で同じく肉まんを頬張っていた真島信司の突っ込みに、彼は即座に答えた。
「なのに食べたいのかよ」
 素朴な疑問に、何故か黒滝は照れたように笑う。
「うちのひいじいさんが食道楽だったらしくてな、しょっちゅう色んな店に行ってはぶろぐ? だか ぶろっぐ? だかなんだかで感想を書きこみしてたらしい。晩年に寝たきりになった後に『まぐろが食いたい』って言って大騒ぎしてさ。じいさんがあそこまで騒いだもんがどれだけうまいのか、気になるだろ」
「まさかそれで入隊か?」
「そう」
 不純だと呟いた真島に、黒滝は「お前だって似たようなモンだろ」と肘でつつく。
「海が見たくてー、とか、海が好きでー、とか、不純さはそんな変わんねぇよ」
「山育ちで、遠くに見える海に憧れがあって、やっと念願叶って」
「その話は何度も聞いた。あと今日日山育ちじゃなくても海なんか見たことねぇよ」
「まあ、違いない。――そういや、川魚なら昔食べたことある」
「まじで!? 高級品じゃん!」
 思わず大声を上げ、そばに居たカモメが驚いたのか、ばさばさと飛び立っていった。そちらには目もくれず、黒滝は膝立ちになって真島に詰め寄る。
「どうだった!?」
「不味くはなかったけど、俺は肉の方が好き、かな」
「まじか。でもいいなぁ。まぐろじゃなくてもいいから魚食ってみてぇ」
 残り一口となった肉まんを口の中に放り込み、黒滝は両手を体の後ろについて天を仰ぐ。
 真島もまた空を見上げ、悠々と飛ぶカモメを見送った。ごつんと黒滝の肩がぶつかってくる。
「じゃあさー。いつか、海を取り戻したら、二人で腹いっぱい食おうぜ、まぐろ」

 ***

 最初にそれが現れたのは遥か北の海と言われている。
 付近の漁船が相次いで消え、次いで大型客船が一隻、一週間の音信不通の後に大破した状態で海岸に流れ着いた。
 乗員、乗客の半数は行方が分からないまま、残りのほとんどは船上で死体となって発見された。
 発見時にかろうじて息のあった船員の話によれば、海に無数の黒い泡が浮かび、その中から現れた怪物に襲われたのだという。
「もう、海は人のものではなくなった」
――それがその船員の今際の言葉であった。

『海泡生命体バブルスが現れ、海が閉ざされて明日でちょうど百年になります』
 海上護衛団横須賀基地、食堂のテレビ画面の中で、ナレーターの声は深刻そうな色をしていた。
『百年前までは多くの家庭の食卓に、日常的に並んでいた魚介類は消え、日本文化の一つであった寿司も今は見ることもできません。また、船での輸入出量が大幅に制限されたため、大規模な食糧難が起こりました』
 画面が切り替わり、さまざまな魚料理と思われるものと、ガラガラの食糧品棚、それに群がる一般市民の映像が出る。
 ひでぇな、と真島の前で月本がため息のような感想を漏らした。
『それだけでなく、世界中に張り巡らされていた海底ケーブルが断ち切られたことと、セイレーンの唄と呼ばれる電波障害により、当時普及率八十パーセント以上と言われていたインターネット文化は停滞を余儀なくされ、どの国とも接していない島国の日本は、一時世界から孤立を強いられることとなります』
 最後に流れた映像は百年前の海岸の映像だろうか、台風の様子を撮影したものと思われる白く荒れ狂った海が映し出された後に画面はスタジオに戻り、司会者の女性と、隣には二人の男性が並んでいる。
『生命のゆりかごとも言われた海に一体なにが起こったのでしょうか。本日は海洋研究家の姫宮鬼蔵先生と、海洋ジャーナリストの中内浩史氏をゲストにお迎えし、これまでの百年とこれからの海について――』
「月本中隊長! 真島小隊長!」
 食堂に間延びした声が響き、隅のテーブルに陣取っていた二人は食事の手を止めた。
「……うるせぇぞ平山。こっちは二日酔いなんだ」
 テーブルに肘をつき、気だるげにうどんのどんぶり鉢に浮いた天かすを少しずつ箸でつまんでいた月本が低い声で呻く。
「調子にのって一升瓶なんて開けるからっすよー。開けたら中隊長のことだから全部飲んじゃうに決まってるじゃないすか」
 鋭い眼光でにらまれても、平山と呼ばれた青年は堪えた様子もなくへらへらと笑い、逆にたしなめるように言い返す。月本はため息を吐くとお冷やのグラスを煽り、不機嫌そうに真島につき出した。
「それでどうした? 今度はなにをやらかした」
 苦笑いの真島がそのグラスに水を注ぎながら平山をみあげた。
「やらかしてないっすよ!」
 心外そうに顔の前でぶんぶんと手を振り、平山は「またそうやって自分を問題児みたいに!」と気色ばむ。 
「はて、先々月共用の洗濯機に洗剤を一箱ぶちこんで修理行きにしたのは誰だった」
「その前の前の月は掃除機のパックを長いこと交換してなくて爆発させたじゃねぇか」
「ぐっ、前者はともかく後者は班員全員の責任だと思うっす……まあそんなことより! 司令がお呼びっす!」
 二人に責められ、誤魔化すような敬礼と共に平山が無理矢理に話を戻した。
 月本が再び水を一気に飲み干す。
「なんだまだ荷物か? あんだけもうないか聞いたのに」
 三人の所属する部隊のトップに立つ原田司令は明日で退役をむかえる。昨日は平山も含めた真島が率いる小隊の隊員を始め、有志が大勢集まり、引っ越しの手伝いや司令室の大掃除をした。お世話になった司令のため……と言えば聞こえが良いが、ほとんどの隊員はその後に振る舞われた酒と食事が目当てだったのだが。
「さー? でもお二人ご指名だったんで最後にありがたいお言葉でもあるんじゃないすか。荷物なら自分らだけでいいはずですし」
 平山のその言葉を聞いて、月本がまだ苦し気な深呼吸をした。男性にしては長い、肩まである髪を手首にはめていたゴムで縛ると、箸を持ち直し、肘をついていた左手を中身のほとんどが残ったまま冷めているうどんの鉢にそえる。
「辛いのでしたら俺だけでも先に」
「いや、少し待て」
 腰を浮かしかけた真島にそう言うが早いが、凄まじい勢いでうどんを啜り――もはやほとんどそのまま飲んでいるようだった――、真島が再び注いでいた水を飲み干して月本は立ち上がる。
「今日は非番のはずだろあのクソジジィ……あー、髭剃ってくればよかったな……」
 無精ひげの生えた顎を撫でながらぼやいているが、真島は昨日の月本が飲み会目当てではなく、純粋に上司のために働いたのだと知っている。率先して飲みすぎたのはそれを誤魔化すためだ。まあ、振る舞われた酒が軒並み高いものだったのもあるだろうが。
 苦笑して、「じゃあ行きますか」と食堂を出る。
「そうそう! 新しい司令の話聞きました?」
 二人の食器を返しに行っていた平山が、はしゃぐ子犬のように小走りで前に回り込んだ。エレベーターのボタンを押す。
「大湊から来るんだろ」
「真島小隊長と同い年らしいっすよ!」
 ほう、と呟いて、昇ってきたエレベーターに乗り込みながら月本が真島をちらりと見た。
「それは、若いな」
「上に立つには若すぎるっすよ!」
 非難めいた平山の声に、月本は面白がるように再び真島を見た。
「若すぎるとさ」
「――まあ、事実かもしれないですけど平山なんかに言われると腹が立ちます」
「や、真島さんのことを言ってるわけじゃなくて!」
「平山、腕立て二百回な」
 楽しげな月本に、ひえぇと悲鳴が上がった。
「部隊の上に、が抜けただけっす! 断じて真島小隊長のことを言ったわけじゃないっす!」
「まあ、そういうことにしてやるか。五十回でいいぞ」
「うう、あざっす……」
 まったく有り難いと思っていないであろう礼と共に、平山がその場に這いつくばる。イッチ! ニ! と掛け声とともに体が上下した。
「真島と同期か、確かに若い。越智より若いよな。あいつはあの頃二十九だっけ?」
 それを尻目に確認するように月本が言った越智とは、今の原田司令の前にいた上司の名だ。着任半年でまたすぐに別の基地に異動になって、今はもう噂すら聞かない。
「きっと! また! 七光りのボンボンっすよ!」
 狭いエレベーター内で腕立てをしながらいう平山はどこか嬉しげに聞こえた。
 対して真島の脳裏には苦い思い出が蘇る。確かに越智は組織の上層部の一人息子で、前線のことを全く理解していなかった。的外れで気まぐれな指示に散々振り回されて、越智の異動の辞令を聞いたときは当時まだ小隊長だった月本と二人、祝杯を上げたものだ。
 古いエレベーターはごおんと音を立てて到着し、扉が開く。
「つかなんでお前まで来てるんだ。呼ばれたのか?」
「連れてこい、という指示っす。なんで自分も行くべきかなと」
「なるほど」
 長い廊下を抜け、突き当りの扉を月本が叩いた。
「月本康二郎、真島信司、両名、参りました」
「入りたまえ」
 失礼します、と扉を開け、南向きの窓から入る日差しに目を細める。
 窓を背にした机には、退役を控えたためか昨日までとは打って変わって穏やかな表情の原田司令の姿があった。室内はもうすっかりがらんとして、本が詰まっていた棚も、机に並んでいた十人もいるという孫たちの写真もきれいさっぱり片づけられていたが、ただ一つだけ、肌身から離さないことを誓ったという亡き奥方との結婚式の写真だけは机の上に飾られている。
「よく来た」
 司令室には先客があった。
 机の前の来客用ソファに、白い軍服に身を包んだ若い男と、黒いワンピースにベリーショートの髪型の女が座ってこちらを見上げている。ふと真島と目があった女の方の顔半分にはひどい火傷跡があり、ハッとして、思わず目をそらしてしまった。
「原田司令、私たちはこれで」
 男の方が立ち上がりかけたのを、原田はいやと手で制する。
「紹介しよう。この二人はうちの部隊の回遊中隊隊長の月本大尉と、第二小隊隊長を務める真島中尉――と、後ろにいるのが伍長の平山だ」
 ついでのように紹介された平山が声を出さずに「ちょっ」と言ったような気がしたが、かまわず二人に向かって会釈の敬礼を行う。慌てて平山も続いた。
「こちらは私の後任の黒滝孝秋少佐と、常駐研究者の姫宮ゆき博士であられる。博士は医師としても次の任務に参加していただく予定だ」
 紹介された男は右手を挙げて敬礼を行い、女は小さく頭を下げた。
「黒、滝? 少佐?」
 呟き、姫宮の方に視線を取られていた上、着帽していた為によく見えていなかった男の顔を改めて真島が見た。
 最後に見たときよりもずいぶんと引き締まった顔つきになっているが、間違いない。学校卒業以来すっかり連絡も取れなくなった同期の姿である。
 懐かしさに、思わず顔がほころぶ。
――しかし。
「顔見知りかね。そういえば二人も横須賀の出だったな」
 気づいた原田が黒滝を見た。
 制帽を目深にかぶった黒滝はじっと真島の顔を見つめると、にこりともせずに首を横に振った。
「――いえ、見覚えがありませんね」
 なんの冗談のつもりなのか。
 真島が呆然とするのも気づかず、原田が「そうか」と頷く。
「少佐の兄上は大湊基地のあの『黒鬼』だ。少佐自身も黒鬼部隊の出身だし、それなりに名も知れているだろう」
「黒鬼部隊でありますか! 存じています。大湊基地の、いや、組織内でも最強と呼ばれる部隊ではないですか」
 月本が頷き、姫宮がにやりと笑って「有名人ね」と黒滝のほうを振り向く。だが賛辞にも、彼はまるで何も感じていないような、冷たく沈んだような顔をしている。
「……やっぱり七光りすか」
 背後で小さく呟いた平山の足を、月本が思い切り踏みつけた。


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