保健医と彼女

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「旅行……?」
 寝惚け眼のままたずねると、キッチンに立っていた香介はええと頷いた。
「はい、どうぞ」
「……んんっ、ありがと……」
 大きく伸びをしてから差し出されたカップを受け取る。いつものとおり、砂糖がほんのちょっとだけ入ったほぼブラックなコーヒー。
「あれ、服……」
 一口だけ口をつけてから、尋ねる。香介はちょっと苦笑をもらした。
「僭越ながら、勝手に洗濯させてもらいました。濡れたままだとよくないし」
 勝手知ったるなんとやら、か。そういえば確かに廊下の向こうで洗濯機の動く音がする。
 時計を見ると、どうやら一時間は眠っていたらしい。バケツをひっくり返したような激しい雨は、もう随分穏やかになっていた。
「旅行って、あの三人で?」
 コーヒーを一口飲んでから、ベッドから身を乗り出してそれをローテーブルに置く。申し訳程度に体にかかっていたタオルケットをつかんだまま立ち上がってクローゼットをあけた。
「そう、三人で」
 ふぅん、と口の中で呟いて、
「クリスマスに、スキーねぇ……。どうせこっちは仕事だからいいけど、マゾいね、相変わらず」
「そう、かな?」
 シャツを着ながら頷く。
――歪な正三角形。矛盾した言葉だが、本当に歪んでいる。なのに均衡は保たれて、崩すのは容易ではない。
 香介の話を聞くたびにいつもそう思う。
 大学時代から、香介は今の同僚でもある男性教師が好きで、その教師は同じ腐れ縁の女教師が好き。女教師は女教師で香介のことが好きなのだ。笑ってしまう。なんて三つ巴。
「そしてまた旅行から帰ってあの『古典の君』のヤケ酒に付き合わされるわけか、君は」
「その予定は今のところないけど」
「断言していいね、絶対そうなる」
 香介の隣に腰をおろして、口元に笑みを浮かべた。
「そして君は、そうあって欲しいと思っているだろう?」
 香介は驚いたように目を見開いた。ややあって笑う。
「バレバレでしたか」
「無論」
 その笑みは、確実に憂いを含んでいた。なにに対する憂いなのか、いくつか思い当たっても、どれも違うような気がした。
 関係を壊しなさい、と簡単に言えるのは、外に居る人間だからか。似た経験を持たないからか。
「ごめんなさい」
 謝られても困る。それでも笑いながら、
「良かったんじゃない。男への浮気は許す寛大な彼女で」
 そう返すことにした。
「そうですね……ありがとう」
 感謝されても困る。
「貴女でよかった」
 気恥ずかしくも真剣にそう言って、香介は立ち上がった。
 洗濯機が終了のアラームを鳴らしている。ああ、干さなきゃいけないのか。
 ぼんやりと背中を見送りかけてから、呟く。
「……結婚、しよっか?」
 ついでにとカップをキッチンへ持っていこうとしていた足が、とまる。ゆっくりと振り向いた。
「あまりにも唐突なプロポーズですね」
「こういうのは、奇をてらったほうがいいと思って」
「てらいすぎですよ」
 香介は苦笑をもらした。
「本音は?」
「来月ロサンゼルスで学会です。気が向いたらでいいので留守番とかお願いします。特にそこの葉っぱの水遣り」
 部屋の隅の観葉植物を指差す。あれはもしかすると香介より大事かもしれない。
「了解」
「プロポーズの方は?」
「そちらも了解の方向で」
 一瞬の間。
「と、言われたら困るのは、そちらでしょう?」
「確かに、一瞬困った」
 言いながらぼすんとベッドに転がると、香介が横に座って見下ろしてきた。
「こし餡の饅頭がいいな、スキーの土産」
「アメリカ土産は……なにがあるのかな」
「さあ……」
 雨がまた強くなってきたようだ。
「おいで」
「洗濯物は?」
「いい」
 薄く笑って手招きすると、香介は覆いかぶさるように、キスをした。


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update 2011.03.31/書いたの 2009年10月ごろ
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