「魔王が斃されたんだって。やっとよ」
朝食のトーストを頬張りながら読み上げられた新聞の記事を、俺の耳は素通りしていた。
「ねぇあなた。聞いてる?」
妻によって繰り返された言葉は今度こそ頭の芯まで染みわたり、砂糖を入れたはずのコーヒーはいつもの何倍も苦く感じた。新聞から顔を上げた妻は怪訝な顔をしている。
「あ、ああ」
近年ずっとその名を呼ばれず、『魔王』とだけ呼ばれた男の年より幼い顔を思い出していた。それを最後に見たのはもう二十年も前の話だった。俺も彼女もその男も、まだ十代になったばかりだった。いつまでも、遊んでいられる時代が続くと信じて疑わない頃だった。
「魔王の……嫁は?」
「さあ……? 特に何も書いてないけど、一緒に処刑されてるんじゃない?」
遠慮のない言葉に、思わず俺は耳を塞ぐ。妻は呆れた顔をして、トーストの最後のかけらを飲み込んだ。
――これは恋じゃない。錯覚だ
――もし錯覚だとして、それが何がいけないというの? あなたが分からないというなら、あの人と分かりあえるのはもう私だけなのよ
それが俺たちの最後の会話だった。贈ったばかりの誕生祝いの花を抱きしめながら、彼女は切なそうに俺を見つめる。
俺たちの関係が変わったのはいつからか、当時はそのことばかり考えていた。
貴族の放蕩息子だったはずの少年は王の妾腹として王城へ行き、パン屋の娘だったお転婆な少女はその妻としてついて行く。花屋の息子はそれを引き留められずに一人田舎町に残される。
――誕生日は祝っても、結婚は祝ってくれないのね。でも、私、幸せになるわ。だから、あなたも。
彼女が好きだったひまわりの花束を抱えて去りゆく後姿を、どうして力づくでも止めなかったんだろうと今でも夢に見る。
「なにかしら、これ」
朝刊と一緒にポストに入っていた白い封筒を取って妻が首をひねる。
俺宛ての差出人のない封筒の中には、便箋に包まれた花の種が二粒だけ。
「ひまわりの、種?」
ハッとして窓の外を見る。戦争を繰り返し、悪政をしいた国王の崩御を祝う人々の声を遠くに聞きながら、彼女のこれからを思った。
書いたの:2015/8/9フリーワンライ企画にて
お題:耳をふさぐ いつまでも、 これは恋じゃない錯覚だ
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