ヴァルキュリアの帰還

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 目が覚めたら、小指に赤い糸が結ばれていた。
 寝ぼけ眼で引きちぎろうとしたら、逆にかえってきつくなり、痛くて僕は小さく呻いた。
「こういうことするのはヒルド様か……帰って来たんならそう言えばいいのに」
 寝床から這い出て、赤い糸をたどって廊下にでる。転々と衣服が脱ぎ捨てられている。僕の部屋から出て、脱ぎ捨てながら自室に戻ったらしい。
 生臭い鉄の匂いのする真っ赤な外套を拾い上げ、次には少し赤い胴衣を。
 下着になるにつれ、臭いも赤も薄くなっていく。つまりヒルド様の血じゃない。初めは驚いて、寝ているヒルド様の布団をはぎ取って体中確かめてしまったけど、今じゃこれぐらい動じない。その証拠に、まっすぐヒルド様の部屋には向かわず、洗濯室に寄って衣類を洗濯桶に漬け込む余裕さえある。
「ヒルド様、おはようございます」
「ん……むぅ」
 たった一晩で荒らすに荒らしたヒルド様の部屋に入ると、僕はカーテンを勢いよく開け放つ。
 ヒルド様は不機嫌そうな声でさらに布団の中にもぐりこんだ。
 お疲れなのは分かるけど、せめてシャワーを浴びてから床についていただきたかったな。僕は負けじと布団を引っぺがす。
「ひゃわ!」
「おはようございます」
 引きはがされた布団の中から出てきた、全裸のヒルドさまの小指には、やっぱり僕の小指の糸のもう片方の先が結ばれていた。
「もう、いつからシグはそんなに乱暴になったの」
「ヒルド様に鍛えられたんです。おかえりなさいませ」
「おねーさま、でしょ」
 しぶしぶといった体でヒルド様はベッドから降りて、椅子に引っ掛けてあった薄手のシャツを着た。小指の糸が引っかかるから、右の袖は通さず、ひっかけたままだ。
「もーこれ外してください、おねーさま」
 おねーさま。ヒルド様は僕がそう呼ぶと、分かりやすく喜ぶ。
 けれど僕らは血が繋がっていない。弟して引き取られ、弟のようにかわいがってくれるけれども。そのほかの『おねーさま』はともかく、そもそも、ヒルド様だって僕に弟の役割を求めていないのに。
 この赤い糸がその証拠だ。
「やーよ。折角帰って来たんだから。ながぁくしたんだから、邪魔じゃないでしょう?」
 僕の頬をするりと白い指が撫でた。まるで今まで傷つくことを知らないような指だ。けれどこの指は、他者の傷つけ方を誰よりもよく知っている。
「早く僕以外のお相手を見つけてください」
 ヒルド様はイロコイがお好きだ。生きがいとか、依存してるとか、そう言っても過言じゃない。けれどお眼鏡にかなう殿方は中々現れない。それでなくともヒルド様姉妹は戦争の英雄だ。けれど平時には悪魔と呼ばれ、人々から疎まれる。ヒルド様は愛に飢えていらっしゃる。だからって僕を代用しなくてもいいと、思うんだけどな。
 それでもヒルド様はご自分のお役目をよく分かっていて、一度も戦場に行きたくないとは言ったことがない。一度だけひどくお酒に酔って凄惨な最前線の話をしてくれたことがあったけど、その時のヒルド様の目は空っぽで、諦めて運命を享受しているように思えて以来、僕を愛玩するくらい、いいかなとも思ってしまう。
「シグ、一緒にシャワーを浴びましょうよ」
 散らかされた部屋を片付けていた僕に後ろから抱き着きながら、ヒルドさまは甘えた声をだした。有無を言わさず抱きかかえられて、シャワールームに連行される。
「ダメですヒルド様。僕は他にお仕事がありますので」
「ひどいわシグ。いつからそんな冷たくなってしまったの」
 ヒルド様は僕をお姫様だっこしたまま、ぽろぽろと悲しげに涙をこぼした。
 けれどそれは空涙。嘘泣きだ。女性は本当に悲しくなくたっていつでも簡単に涙を流せるのだと、僕はこの館にきて学んだのだ。
「お腹すいてらっしゃるでしょ?」
「……それもそうね」
 ヒルド様は案の定泣いたことなんて忘れて、すんなり僕を下してくれた。
「暖かいミネストローネが食べたいなぁ」
 甘えた声のヒルド様にはいはいと僕は微笑んで答える。
 すっかり機嫌をよくしたヒルド様の背中に、僕は小指の件を思い出して尋ねた。
「糸は外してくれないのですか?」
「だーめ。シグはすぐどこか行っちゃうんだから、こうしておけば探すのに楽でしょう」
 体洗うのに邪魔だろうになぁと思ったけど、諦めて僕は朝食の用意に向かうことにした。


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書いたの:2015/10/11フリーワンライ企画にて
お題:小指の糸 恋愛依存症 空涙 戦争の英雄と平時の悪魔
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