楽園への道

TOP



 ばしゃりとスカートに泥水がはねた。
「新品だったのにな」
 黒いスカートに不自然な茶色の模様がついて思わず呟いたけれど、さして気になりはしなかった。
 昨日の夕方まで降っていた雨はデコボコだらけの石畳の道のあちこちにぬかるみを作っている。私はそれを避けるように軽やかなステップを踏んで歩き続ける。
 だって今日は素敵な日だから。雨だってもう降ってない。ゴミだらけの街中から立ち込める腐臭も気にならない。
――この夜が明けたら、二人で逃げよう。
 あの人の言葉を思い出すだけで、私は幸せな気分になる。
 格子の向こうのあの人が、私の持つこの小さな鍵を待っている。
 隙間からすっかり痩せ細ってしまった指が私にすがり、生まれてきた意味を思い出させてくれた。
 やっとあの人への借りを返せる。ここまで、長かった。


 一番古い記憶を振り返ると、大きな手と小さな手をまず思い出す。
 小さな手は妹のものだ。大きな手は母のものか、父のものか思い出せない。
 まず小さな手が吹き飛んで引き離された。次に大きな手が血にまみれ、手首から先がちぎれて見えなくなった。
 街中に砲弾が降り注ぎ、すべてが炎に包まれたその夜、私は自分の命以外の何もかもを失った。


 誤って水たまりを踏んでしまい、ふたたびばしゃりと泥水がはねる。
 船にのせられて連れてこられたこの大きな街で、私はこの泥水のような生き方をした。石畳を這い、誰からもうとまれるような、そんな生活。
 あの人と出会ったのはその頃で、その頃のあの人は理想に燃える立派な将校様だった。
 あの人は掃き溜めになった私にも優しく、そして私はきっと初めての恋をした。あの人が私を好いていてくれたかは、知りようがないし、知りたくもない。この国をユートピアにするための夢物語を聞かされ続けるのも嫌じゃなかった。いつかその楽園に私を連れてってくれることを、信じて疑いはしなかった。
 夢が終わったのは、この街が故郷と同じように炎に包まれた日だった。とはいえ私の故郷より規模は小さく、すぐに事態はおさめられ、元凶たる異国の間者が捕えられた。
――あの人だった。
 そして私は知るのだった、私の街を焼いたのも、かの国であると。


 今日はなんて素敵な日だろう。約束の格子の鍵は、お客の一人から簡単に手に入った。
 格子を開いたら、まずあの人を地獄へ逃がそう。そして私はこの袋小路のような世界を飛び出して、妹と両親が待つ楽園へ旅立つのだ。


TOP

書いたの:2015/8/29フリーワンライ企画にて
お題:新品だったのに 格子の向こう この夜が明けたら 袋小路 ユートピア
Copyright 2015 chiaki mizumachi all rights reserved.