『月が綺麗ですね』
思わず私は差した傘を少し斜めにし、空を見上げた。冷たい雨が降り注ぐ空は当然厚い雲に覆われて、月など見えるはずもない。
またか。
そう思わず口の中で呟いたが、相手には気取られなかったようだ。
夏目漱石の逸話を踏まえればその台詞が何を意味するのかを理解して、恋の足音でも聞こえてくるのかもしれないが、そんな気はさらさらない。たとえ私と彼が最後の人類だとしたって、結ばれようとも結ばれたいとも思わないものだ。
いや、彼が最後の人類にはなりえないのだけれど。
夢を見ているかのように彼はずぶ濡れのままうっとりと空を見上げている。
『こんな日にはオルゴールを聞いて眠りにつきたいものですね』
きっと思い浮かべているのは私の部屋にある、バッハのメヌエットを流しながら首を揺らす人形だろう。
彼が小さいころから大好きで、私の部屋に来るたびにねじを巻いていたのを今でもはっきりと憶えている。
そんなに好きならあげるよと、言えばよかった。もっと早く、あげればよかった。男のくせに、なんて言わなきゃよかった。
後悔が足に絡まって、身動きが取れない気持ちになる。
「濡れるよ」
傘を半分差し出して、彼の空を覆う。私より少しだけ背の低いまま成長が止まってしまった彼は、ぼんやりと私を見て、優しく微笑む。
『ありがとう』
そう言って、私の返事も聞かないまま、彼はふわりと闇に溶けた。
毎度のことだ。きっとまた現れるんだろう。それでも私は彼が天に昇っていく様子を頭に浮かべながら、それを追いかけるように空を見上げた。
書いたの:2016/5/14フリーワンライ企画にて
お題:こんな日にはオルゴールを 冷たい雨と相合傘 『月が綺麗ですね』 恋の足音 最後の人類
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