人食いの笑み

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 私の目の前を、赤い傘が降ってきた。
「あら、ごめんなさい」
 血の雨が降る森の中、くるくると踊るその人は私に気づいてにこりと微笑む。足元に散らばる青いままの紅葉が、血の赤に染まった。
 私はその場にへたりこんで、赤くて鉄の匂いがするそれが顔にかかるのを感じた。けれど、どうすることもできなくて、近づいてくる彼女をぽかんと間抜けな顔で見た。
「あなたは運がいいわね。今、お腹いっぱいなのよ」
 ひやりとした手が私の頬の血を拭い、血よりも真っ赤な舌がそれをなめとる。
 ぐるぐると世界が回り、意識は、そこで、途切れた。



 私の村をぐるりと囲む森は、この国の東地域で一番恐ろしく凶悪と謳われる魔物の棲家だった。
 真っ赤な傘を持ち歩き、血の雨を降らせるその魔物は人の形をしており、絶えず笑顔を張り付けているが、その笑顔を見たものは多くない。生きていないことが多いからだ。
 夜の森を歩くのは自殺と同じだ。百年前、魔物がこの場所に移り住んできたとき、当時の村長が魔物と『夜に森に居るものは食べてかまわない』と契約を結んでいるからだ。文言には『昼の森を歩くものには手を出さない』と続き、当時魔物に食い尽くされるかと思われた村は平和を取り戻し、交渉に成功した村長はここでは英雄だ。私の、曾祖父にあたる。
 英雄としても、すでに誰からも話題にされることもなく、むしろ逆に、その話題は禁忌として扱われるに等しい。
「よかった、本当によかった」
 目覚めた私の横で、ラアドは静かにそういって涙を流した。
「血まみれで見つけたときは、もうだめかと」
 私は森の入口で倒れていたらしい。私を汚していた血はすべて別のもので、私自身は無傷であることは、聞くまでもなくわかっている。
「ごめんなさい。……母さんは?」
「大丈夫、今は落ち着いているよ。薬を飲ませたから。朝まで待てばよかったんだよ」
「ごめんなさい」
 謝罪を繰り返した私に、ラアドは「謝ってほしいわけじゃない」と困ったように笑って頭をぽんぽんと撫でた。
 母が病に倒れたのは去年の暮の事だ。今、この村には医者が居ない。昨日の昼間に隣村の医者に薬をもらいに行って、帰るのが遅れてしまった。日が沈みかけるころに森に入ったが、まだ間に合うだろうと高をくくったのがいけなかった。冬が近くなり、日が落ちる時刻は日に日に早くなっている。
「なにがあった。あの血は誰のだ?」
 ラアドに問われ、私は首を横に振る。
「分からない。人ではなかった、気がする……」
 雨となって降り注いだ血の主は、私が見たときすでに首がなかったけれど、胴体に不釣り合いな長くいかめしい腕をしていた。人ではありえないほどのものだ。
「そうか……」
 ラアドは右手で口元をおさえるようにして、「噂は本当だったか」と低く呟いた。
「噂?」
「北の魔物が領土を拡大しているそうだ。トルエノが落ちたらしい。魔物に支配されている」
 低い声で言った地名、ここからそう遠くない、比較的大きな街の名だ。幼いころ、まだ生きていた父と、元気だった母と三人で麦の買い付けに行ったことがある。
「おやじたちは、もし北の魔物が来たら、軍門に下ると決めたそうだ」
「そんな」
 まだ来るとも限らないのに。それに森にはすでに魔物がいる。北の魔物と対等と呼ばれる彼女が。
「むしろ、討ってくれることを期待しているのかもしれない」
 ラアドはトルエノの現状を語って聞かせた。街はいまのところ、平穏そのものらしい。夜におびえる私の村よりもだと言うのだ。
 出歩かなければいいとはいえ、この村の住人が夜におびえているのは確かだ。それでなくとも今、村には医者がおらず、夜中急病人など出てしまえば、危険を賭して馬車で森を突っ切らなければならない。そして、そうなればかなりの確率で、彼女と出会ってしまうだろう。
 きっと、彼女を見て生きて帰った者は久しぶりだ。ここ数年は夜の森に入る者自体ほぼいない。村民という餌が少ない状態で、生きて帰れたことは奇跡だ。
「笑顔、だったわ」
「え?」
 唐突に言った私にラアドは首をかしげた。
「とても綺麗で可愛らしかったの」
 魔物は少女の姿をしていた。ただ、私の頬に触れた手はとても大きく、爪も長かった。掴まれれば、人間を引き裂くことなどたやすいだろう。
――強者は、常に笑顔だと教わったことがある。
 今の村民の表情はみな暗く沈んで、私も最後にいつ笑ったか、思い出せない。
 あの魔物から笑顔が消えるようなことが、これからこの村でおこるのだろうか。
「北の魔物は手下が大勢いる。いくらアレでも多勢に無勢だ」
 そんなモノに支配されて、村は、人はどうなってしまうのだろう。
 恐ろしさなど微塵も感じず、期待すらしているラアドに比べ、私は両手を握りしめ、それならせめて、このままがいいと願った。


+++


「いらっしゃい。あら、あの時の」
 魔物の棲家を訪ねた。
 木々に埋もれるようにして作られた小屋を見つけるのに骨が折れた。何せ探すことができるのは昼間だけだ。村の仕事と母の看病の合間を縫って、しらみつぶしに探してようやく見つけたのは、あれから一週間近くがすぎていた。
 北の魔物は、まだ噂以外に姿を現していない。
「なにか御用?」
 恐る恐る訪ねた私を、魔物は意外にも友好的に迎えてくれた。昼間は襲われないという契約がある以上、命の心配はないだろうと思っていたが、つれなく追い返されたり、眠っていて無駄足に終わる可能性も考えていたから、少し拍子抜けした。
 彼女の棲家は私の家よりもほんの少し小さく、壁には多くの薬草のようなものがぶら下げられ、かまどの上では大なべがぐつぐつと赤黒い何かを煮込んでいた。テーブルの上に置かれた一輪挿しに、コスモスが挿されている。まるでその感性は人間のようで、不思議な気がした
 そのテーブルにつき、大きな手で器用に小さなカップを出し、お茶が振る舞われる。お茶からは、爽やかな香りがした。
「北の魔物を、知っていますか」
 単刀直入に尋ねると、魔物は笑顔のまま小さく首をかしげた。
 北の魔物が支配を広げていること、こちらに近づいているらしいことを伝えると、ああと魔物は小さなカップを持ち上げて、一口飲んで頷いた。
「シャマールなら、なんどか手下をよこしているわ。軍門に下るか、この地を明け渡せと。おかげで私は毎日お腹いっぱいなの。あなたも感謝するといいわ、おかげで私に食べられなくて済んだのだから」
 魔物の言うことの意味が分からずに、私はカップに手を添えたまま、長い彼女の睫毛をじっと見つめる。
 彼女は口角をあげたまま、ちらりとかまどの鍋をみた。ハッとして、カップから手を放す。
「それがどうかしたの?」
「えっ、あ、いえ、どうするつもりなんですか」
 鍋の中のものが私の考えるものであるならば、その問いは無意味なような気がした。
 そして、あの夜森の中でみた、首のない魔物は『北の魔物』の配下のものだったのではないかと思いいたる。
「そうねぇ、最近は数も頻度も増えているし」
 食べきれないわとどこか困ったように、ずれた返事をされた。
「逃げたり、しないんですか」
「そのつもりはないわ。負ける気なんてしないもの」
 にっこりと笑って、魔物はきっぱりと答えた。
「なぜ」
 私の問いに魔物はテーブルの上に肘をつき、口元の前で大きな手を組んだ。丸い青い目が私を見つめる。
「ここは私の森よ。パエーゼが居ていいと言ったんだもの」
 契約を交わしたという私の曾祖父の名をいとおしげに魔物は呼んで、あの赤い舌で舌なめずりをした。
――私は一体、何のためにここに来たんだろうか。
 思わず自問したが、すぐに答えは出なかった。
 私はラアドや他の村民のように、北の魔物に支配されることに希望を見いだせない。
 あの森の中、独り踊る彼女は美しく、冒し難く思えた。 あの時私を見逃してくれた彼女が、果たして本当に恐ろしい逸話を持つ魔物なのか、信じ難かったのもある。
  すがれば助けてくれるかもしれない。そう思ったものの、それで彼女が北の魔物に勝てるようになるのか、は変わらないとも思う。
「わたしはパエーゼの味が忘れられないの。もう一度味わえるかもしれないなら、ここにいたいの」
 けれどやはり、どんなに美しくとも、魔物はやはり、魔物でしかなかった。
 曾祖父は自らの体をなげうって、村を救う契約を交わした。命はとられなかったが、両手か両足か、あるいはすべてか、詳しく伝えられてはいないけれど、それらを魔物に奪われて、やっと得た契約だった。
 彼の余生はそれから長くはなく、葬儀の夜、魔物はひっそりと我が家にやってきて、骸を譲ってくれと泣いたという。今まさに私の前で笑顔を崩さない、彼女がだ。
 しかし魔物が現れることは予見されていたため、曾祖父は葬儀の前まだ日の高いうちに葬られていたため、祖父たちは魔物を追い返したそうだ。
 そこまでした曾祖父なのに、今は誰一人として彼に感謝するものはいない。こんな恐ろしい日が続くなら、いっそ滅んでしまえばよかったなど言う者までいる。
――それなら、滅ぶときは今だ。
 俯いてスカートを握りしめた私の頬を、華奢な胴とは不釣り合いな魔物の大きな手が私の頬に降れる。
「あなた、パエーゼと同じにおいがするわね」  
 うっとりとした目は、まるで恋をする乙女のようだった。その目に映っているのは、本当に私だったのか、あるいは曾祖父の姿を重ねてみていたのだろうか。
「あなたは本当に運がいいわ。わたしは本当に運が悪い。ああせっかくパエーゼの玄孫が訪ねてくれたのに、お腹がいっぱいで食べれないだなんて。――あなたは、どんな味がするのかしら。パエーゼより甘い? 辛い? 酸っぱい?」
 囁くような声に、思わず立ち上がった。身を守るように無意識に両手を胸に抱く。
「帰ります」
「そう。またいらしてね。できれば次は夜がいいわ」
 彼女の赤い舌が唇をなめる。もう直視すらできなかった。
 背を向けるのは恐ろしかったが、一刻も早く立ち去りたくて速足で小屋の戸に手をかけた。
「シャマールに街の支配なんてできないわ。あの子はわたしよりちょっとだけ食い意地のはっただけの、ただのお馬鹿さんだもの」
 小さな呟きにちらりと振り向いた。
「早くお逃げなさい」
 微笑んだ彼女が長い指を振った。
 逃げるのは、村からか、彼女からか。
 いずれにしろ二度と来ないだろうと思いながら、私は小屋を飛び出した。


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書いたの:2014/11/7 フリーワンライ企画にて
お題:青いままの紅葉 コスモス 傘が降る
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