レースのエプロンは、こんな日を迎えるために買ったわけじゃない。叫びだしたい気持ちを全部押さえて、私はなんとか笑顔を張り付ける。
「天音、こんなことしてる場合じゃ」
愛情たっぷりの大盛りカレーを前にして、孝信は困惑したように私を見上げた。ルーじゃなく、スパイスから作ったカレーは、生涯で一番の出来だと胸を張って言える。折角美味しくできたのに、彼は口をつけるどころか、スプーンすら手に取ってくれない。
「だめよダーリン。今日はハニーって呼んでくれなきゃ、返事してあげなーい」
わざと甘ったるい声を出してそっぽを向けば、孝信――ダーリンは困ったようにため息をつく。
「今日は私の言うこと、なんでも聞いてくれるって約束でしょう?」
「それは、そうだけど……でも、時間までだ」
ダーリンはどこかイラついたように返事をして壁の時計を見上げた。私はその視線を追いかけると、椅子を持って時計に手を伸ばした。こんな邪魔なもの、外してしまおう。ダーリンは私だけ見てればいいの。
「あま……ハニー!」
「なあに?」
一瞬名前で呼びかけたダーリンが、きちんとハニーと呼んでくれたので、私はすり寄って後ろから抱きつく。わざと背中に胸をおしつけるようにすると、ダーリンは耳まで顔を赤くした。
ホントは裸エプロンならもっと喜ぶかなと思ったけど、それだけはやめてくれとダーリンが言ったので、素直に聞くことにした経緯がある。いつまでもピュアで可愛い、私の愛しいひと。
「と、時計を外すのはやめてくれ。悪かった。お前だけ見るから。……でも、こんなの、無意味だ。もっと違うことを」
「違うこと? 私が欲しいのはダーリンだけだよ。他に望みなんてないよ。さっ、カレーが冷めちゃう。はい、あーん」
彼の背後から手を伸ばしてスプーンを取り、一口分のカレーをすくって差し出す。顔を赤くしたまま、ダーリンは狼狽したように視線をさまよわせた。もう、恥ずかしがり屋さんなんだから。
「いや、自分で食べ」
「あーん」
有無を言わさずスプーンを近づけると、観念したように目を瞑って口を開けた。そのまま黙って咀嚼しているのを見るとキスしたくなったけど、顔を近づけるだけで急に悲しくなってやめた。
「どう、美味しい?」
「……うん、すごく」
ダーリンはいつもきちんと私を褒めてくれる。ハート型にくりぬいた人参を二口目として食べさせてあげたら、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「おいしい」
「泣くほど?」
鼻をすすって、涙も拭かずにダーリンは頷く。三口目以降は自分で食べたダーリンの、食器の音だけが部屋の中に響く。私は向かいの席に座って、両肘をついてそれを見守る。幸せな時間だ。私が作ったものを、ダーリンが喜んで食べてくれる。
ぽたりぽたりと音を立ててダーリンの涙がテーブルの上に落ちていく。
幸せなんて、嘘。本当は、窓を叩く激しい雨と風の音がひどく聞こえる。家がガタガタと揺れて、今にも破れるんじゃないかって不安になるような音も聞こえる。外の木がミシミシと折れる音もする。
――世界は今夜、終わるんだって。
今外に出たら、唸る風の中に竜の息吹を感じることができるだろう。感じた瞬間に吹き飛ばされてしまうけど。
初めは今年の梅雨は長いと思った程度だった。七月が終わって、八月が中盤に差し掛かっても雨は降り続け、今や九月目前。やっと皆がどこかの誰かが世界を滅ぼしてしまったことを知った。悪の秘密結社か、エイリアンか、異世界の人間か。そんなの誰でもいいけど、竜神様の怒りに触れてしまった。誰にも竜は止められない。
――だけど俺が死ねば、竜神様の怒りは収まる。
孝信の一族は代々竜神を崇め祭ってきた。竜を愛し、竜に愛されてきた一族だ。
その末裔の孝信が死んで竜神の元へ行けば、竜はなんでも許してくれるんだって。
どうして、孝信が行かなきゃなんないんだろう。もっと他に、死んでもいい人間はもっとたくさんいるはずなのに。
お父さんが、孝信のお父さんがもう居ないからだ。生きていたら代わりに死んでもらえたのに。勝手に事故で死んで孝信を泣かせたくせに、今また孝信を泣かせるなんて、なんてひどい。憎んでも憎み切れないほど、それが憎い。
かちゃりと孝信がスプーンを皿の上に置いた。私はその音にすっと心が冷えたような気持になった。
「天音」
「ハニーって呼んで」
「天音、もう時間だ」
「いやだ」
「行かなきゃ」
「いやだ、行かないで」
首を振って立ち上がる孝明に、私は涙声で無様にすがる。
「世界なんて、どうでもいいよぉ……行かないでぇ……」
けれどあっけないほど簡単に引きはがされ、孝明は私が箪笥の上に置いた自決の為の刀を再び手に取った。ここで泣き伏せてても意味がない。止めなければ彼が死んでしまう。竜神のものになってしまう。
――竜神にくれてやるくらいなら、いっそ、私が……!
いざというときの為に台所からすでに持ってきていた包丁を、スカートと背中に間に挟んでいた。
それを抜いて孝信に向けた。彼はそれを、どこか悲しげに見つめる。
「行かないで、孝信。出ないとわた、わたしっ」
「天音。お前にそんなことできないだろ」
「そんなの、わからない!」
叫び、孝信に向かって突進したが、彼はするりとそれを避けた。目標を見失って壁にぶつかりかけた私の背中に、どすんと衝撃が襲い、包丁を取り落として床に倒れた。
「……峰打ちだから、大丈夫」
抜いた刀を鞘に納め、孝信が低くそう言った。
「行かないで……」
もうそれを繰り返すしかできず、私は泣きながら彼を見上げる。最期かもしれないのに、孝信は慈しむような表情をして、私の額に口づける。
「さよなら。元気で、ハニー」
熱が離れていく。
孝信が私に背中を向けたが、数歩歩いて、よろめいて蹲る。
「あま……ね……? お前、まさ、か」
孝信が私に恐怖のような表情を浮かべた。逆に、今度は私がゆるゆると壁を伝って立ち上がる。
――盛ったのか。
尋ねる言葉は声になっていなかったようだけれど、私には確かにそう聞こえた。柔らかな短い黒髪をそっとなでる。
「大丈夫、少し痺れるだけだから」
「なんて、ことを」
喋るのもつらそうに言った彼に、私は首を横に振る。
「貴方を絶対に死なせたりしないわ」
床に転がった刀を手に取る。少し引き抜いて鈍く輝く刀身と見つめあい、またしまう。
「……私にも半分、竜神の血が入ってる。だから、大丈夫」
殺しても殺しきれないほど憎い死んだ父の血が、半分。
それで許されないなら、ごめんね。
「あま……義姉、さ……ん」
私はダーリンの頭をもう一度だけ撫で、部屋を出て風が唸る外へと向かう。
大丈夫、きっとタチアオイの花期はもう終わるから。
書いたの:2015/3/28フリーワンライ企画にて
お題:新婚ごっこ 終末の世界で、 峰打ちです
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