タイム・ラグ

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 貫井と井岡が別れたと聞いたのは、その事実から半月がたとうとしていた頃だった。
 もっと言えば、その二人が付き合っていたということを知ったのもその時で、付き合っている間にも二人が別れたであろう直後にも俺は二人に会っているのにも関わらず、全く気付かなかった己の鈍感さが、少し恨めしい。
 そしてそんな俺の気持ちを無視して誘いのメールは来て、カレンダーと時計は一分の狂いもなしに進んでいく。全く関係のない俺が、何故か気まずく思ってしまう相手と顔を合わせなきゃいけない日が。俺は嘘の予定を立てられずに、結局待ち合わせ場所に行って、そして気を使う羽目になっている。
――でもなんか、デートみたいだよな……。
 ファストフード店でオレンジジュース片手に俺は一瞬そう思って、自滅した。
「……くっ」
 よっぽど嬉しいのか、ニコニコしながらバニラシェイクを飲む貫井は、俺の妙なテンションと行動に気付いていない。それは多分、別に貫井が俺みたいに鈍感なのではなく、あまりにシェイクを飲むのに集中しすぎているからだろう。ぶっちゃけると、そういうところが可愛い。
「あのさ」
 暫しの沈黙の後、ようやく口火を切った俺に貫井は「ん?」とストローから口を離して首をかしげて見せた。その仕草が意外にも、いや普段思ってるよりも可愛くて俺はドキッとしてしまって、やっと整理がついて言いたいことをハッキリさせた脳がフリーズを起こす。
「あ、いや、その」
 口ごもって俯いた俺に貫井はふぃと笑って、
「なんかさ、こうやって向かい合って二人でいると、デェトみたいだね」
 貫井は気付いていない。その台詞が、俺をどんなに動揺させたかを。
 それを隠すために俺はしばらくオレンジジュースのストローをくわえて、必死で混乱する頭を整理する。夕方時の店内は親子連れやらカップルやらすごく混んでいる。人から見れば俺たちはどう見えているんだろうと一瞬考えて、余計に顔が赤くなったかもしれない。
「しゃぁねぇじゃん。皆急用が出来たんだって言うし」
 そうだな、とでも軽口を叩ければよかったのだが、テンションのせいかそうもいかなかったらしい。苦し紛れに言い訳めいてそう言うと、貫井は「まあそうだけど」と相槌を打った。
 今日集まるはずだった面子は、俺たちを合わせて五人。ウチの高校ではグループ研究みたいなのを一年に一度やらされることになっていて、提出締め切りの迫った今日、市立図書館にでも集まって仕上げようということになったのだ。だが当日になって一人が部活、一人が風邪をひいたらしい。そしてもう一人、井岡はなんだかよく分からない理由でこれないと言ってきた。上手く中止の連絡が回らなかったせいで俺は貫井と二人きりになり、今に至る。
「でもあたし沢野と喋るの楽しいよ」
「まぁ……俺も、だけどさ」
 でも実は、今日はそれほど話してはいない。そもそもここに入ったのも、間が持たなくて俺が唐突に提案したのだ。このまま帰るのも、勿体無い気がするのだし。それを突っ込まれるかと思ったが、そんな様子もない。しかし飲み終えたらしいシェイクのストローをぐにぐにと押しつぶして、彼女は何とか手持ち無沙汰感を解消しているようにも見えた。
「あ、あのさ」
 また俺は口を開く。
「沢野、それもう今日二十回目」
「数えてたのかよ……」
「言いたいことがあるんでしょ? はっきり言わなきゃ」
 彼女の瞳が上目遣いで俺を見る。俺は言葉を一瞬詰めた。視線を彷徨わせてから、ようやく覚悟を決めた。
「……別れたんだって? 井岡と」
 一瞬、自分の周りがストップ・モーションにでもなったみたいだった。
 どうしてこんな事を言いたかったのか、本当は自分でも分からない。もしかしなくても快い記憶ではないはずのそれを貫井に思い出させて、苦しい思いをさせたいわけでは、少なくともない。だけど、『何故教えてくれなかったのか?』と咎めるような口調で尋ねる権利ぐらい、あるのではないかとは思っている。少なくとも俺は井岡の友達だし、貫井とも……一番の男友達だと自分では思っていたのだから。
 でもやっぱり俺は――そうとは言えなかった。貫井がどんな返答をよこしても、俺はきっと次の言葉を即座に返せない。
「あ、いや、ごめっ」
 貫井がストローを潰すのをやめたので、俺は慌てふためき、口が滑った感を露にして謝った。だが貫井はいたずらっ子のように笑いながら舌を小さくだして、
「うん、フラれちゃった」
 強がっているようには見えなかった。
「フラれ、たんだ」
 別れたことは知っていたけれど、別れた経緯や理由を知らなかった俺は思わず呟く。
「まぁフラれたって言うかケジメをつけたって言うか。付き合ってる本人も付き合ってるかどうかわかんないような付き合い方だったから、さ。嫌われたわけでも、嫌いになったわけでもないの」
 ぐい、とストローを紙コップのふたの向こうに押し込みながら、貫井は言った。
「井岡もあたしも現状維持が得意だからさ、風化なんて絶対しないと思うし、とりあえず友達に戻っただけ。っていうのが井岡があたしに言った事だね。ホントだと信じてるけど」
 なんでもないように言って、彼女はお盆を持って立ち上がった。がこん、とゴミ箱の中にお盆の上の物を突っ込んで、ゴミ箱の上にそれを置いた。
「じゃあ、まだ」
 まだ貫井は、井岡の事が好きなのか?
 その疑問は途中まで言ったものの、やっぱり言えなかった。俺は唇をかみ締めながら、立ち上がった。
 開きっぱなしになっている自動ドアを通り抜けて、人通りの多い地下街に踏み出した。
「まだ、何?」
 貫井が尋ねたけど、俺は答える気になれない。妙にこういうとこ女々しいよね、と言う貫井の姿が浮かんで、俺は慌ててそれを消した。
「なんでもない。へんなこと聞いて、ごめんな」
 謝りながら、ずっと聞きたくて仕方なかったのは、多分それだったのだと俺は理解した。そして同時にもう一つ。
――俺はやっぱり、貫井のことが好きのか。
 それは確認ではなく発見だった。俺は本当に、鈍感だ。
「別にあたしは気にしてないよ。落ち込んでないしさ、謝んないでよ」
 でもいくら俺が貫井のことを好きでも、井岡のように、それを彼女本人に伝えることは無いと思った。
 終わりが怖い。別れの道を選んでしまったら、きっと俺はもう彼女と元通り、今のように友達として振舞う事はできない。井岡のようには無理だ。
 階段を上って、地下街を出た。空はいつのまにか真っ暗だ。つい溜め込んでしまう息を吐き出すと、真っ白なそれはぼんやりと俺の周りを漂って、つい物思いに耽ってしまう。見上げれば、輝くイルミネーション。
「ねぇ、テレビ塔行かない?」


 流石に名所だけあって、テレビ塔の展望台はカップルが多かった。自分たちもその一組に見えているのだろうかと、先ほどと同じ思案が巡ったけど、先程より照れはしなかった。慣れてきたのかもしれない。見下ろせば見える光の道を、嘆息を吐き出しながら眺める貫井の横顔を見て、ふと思った。
「もしかして井岡とここ来た?」
「ん? いや、来てないよ」
 そっか、とちょっと安堵してしまった俺を貫井は見つめ返して、ふぃっと笑う。
「言ったじゃん。まともな付き合い方してなかったって。あたし、デェトしたの今日が初めてだよ」
 また、いたずらっ子のような表情。ドギマギした俺の反応を楽しんでいるのか。
「ああ、そうですか」
 少し怒ったように言い、俺は一歩貫井から距離をとった。
――遊ばれてんのかなぁ、俺。
「きれいだねぇ」
 年寄りめいた言い方をしながら、貫井は一歩近づいて、俺の上着をつかんだ。
「でもちょっと揺れるよね、ここ」
 確かに貫井の言うとおり、展望台は感じるか否かが微妙な程度に揺れていた。軽い乗り物酔いを起こしそうな程度の。
「高いとこ苦手だっけ?」
「大好きだけどさ」
 あたしバカだからね、と笑って貫井は言う。
「でも掴んでると安心するから、気にしないで」
 ていってもその掴んでいるのは俺の服だし……。そんな感情が表にでたのか、ニヤリと貫井は人の悪い笑みを浮かべた。
「それとも腕組ませてくれる?」
「……バカ」
「バカですよー」
 べぇ、と舌を小さく出して、貫井は上着を離した。反対側のほうに行きたいらしい。
 俺はそっと、貫井が掴んでいた場所に触れてみる。言っておくが、貫井は誰にでもこうだ。俺だから掴んだわけじゃない。
――ちょっと悲しい。
 俺は手を離して、再度イルミネーションを見下ろした。貫井は、本当は誰とここに来たかったんだろう? 俺が考えても答えはでないことは分かりきっている。だけど、考えずにはいられなかった。俺は、井岡の代わりなのか?
「さわのー」
 だけど貫井の声が俺を呼べば、そんなマイナス思考は全てプラスに転換されてしまう。代わりだって構わない、俺はこれで満足だ、と。俺は、どうしようもなくバカだ。


「はぁ、意外と楽しめた」
 とん、たん、とん、と氷と雪で覆われた階段をおりて、貫井は大きく伸びをした。
「あ」
「どした?」
 伸びをしたままの状態で固まった貫井に、俺は不思議そうに尋ねた。
「見て、オリオン座」
 貫井が指した夜空に輝く、七つの点。
「へぇ、結構ハッキリ見えるもんだな」
 ほぅ、と白い息を吐き出して、俺は自分の息で少しぼやけて見えた空をぼんやりと仰いだ。あ、俺もしかするとちゃんと星座を見つけたの初めてかも。
「あのさぁ……」
 そう呟くように言ったのは、俺ではなく貫井だった。ゆっくりと溜息をついて、数段上にいる俺を見上げた。
「井岡と付き合ってたの黙ってた事、怒ってる?」
「え?」
 聞き返した俺にちょっと彼女は眼を伏せて、続けた。
「井岡はね、一番に沢野に報告しようって言ったんだよ」
 言葉の意味が分からず、俺は黙り込んでいた。
「あたしが、沢野には黙ってて、って言ったの」
 再度しっかりと俺を見据え、彼女はそう言った。
 俺にはその意味が分からない。
「何で」
「終わりがね、怖かったんだよ」
 手袋をしていない手を温めるために、はぁっと白い息を吐きかけ彼女は続けた。
「井岡は好きだよ。でもなんとなく、こうなる予想はついてたのかなぁ。だから、沢野には言えなかったの」
 まだ、俺には意味が飲み込めない。
「沢野が知ってたら、別れた後も、気を使ってくれちゃうでしょ?」
 確かに、そうだ。
「今日だって、いつもより随分口数減っちゃってるし」
 気を使わせてごめんね、貫井は俺にそう謝った。
 俺は貫井が気になる。井岡だって、友達だ。二人が付き合っていると知れば――俺は喜んで二人を応援しなきゃならなくなる。別れても、いつまでもそうとは思わないけれど、俺はかなりのタブーを強いられる事になるだろう。
「沢野には、いつもどおりに接して欲しかったの」
 ……だけど。
「でも、俺は、お前らの口から聞きたかったよ」
 これはただの、わがままだ。俺は知りたくなかった。だけど、全てが終わった後で俺はそれを知ってしまった。こうなるくらいなら俺は最初から知っていたかった。言ってもどうしようもないことを俺は言っている。自分でも分かっているのが余計にたちが悪い。
「……うん」
 貫井は頷いて黙り込んだ。
――何をやってるんだ、俺は。
 俺は責めるように自問した。溜めこんだ息を一気に吐き出して、できるだけ穏やかな声で。言った。
「ごめん……帰ろう? もう遅いからさ、送ってくし」
 場を取り直そうとして失敗しながらも、俺は先に歩き出した。貫井は着いてきてくれるだろうか、そう心配になって振り向いた、その時。
「でもあたしは、沢野の事も大好きだからね!」
 泣きそうな、必死な顔で、貫井はそう叫んだ。観光客やカップルがこちらを見ている。恥ずかしい……そう客観的に思えるほど俺は貫井の台詞を聞き流せはしなかった。
「っ」
 彼女の台詞にはしっかり『も』が付いていたことなんて、そんなことどうでもいい。かなりの勢いで顔が真赤になって、それでも平常心を保とうとして、やっぱり失敗した。
「わ、分かって、いや、初めて知ったけど、じゃなく、えっとあっ……分かった、から、帰ろ、な?」
「うん!」
 ごしごしと袖で眼の辺りをふくと、走って俺の横まで来て腕を掴んだ。
「!」
 俺がさらに動揺したのは、言うまでもなく。
「な、何やってんだよ!」
「いいじゃん今だけ、仲直りの印!」
「バカ!」
 必死で振りほどいて、俺は走り出す。
「ああ! 置いてかないでよぉ!」
 俺を追って走り出して、つるっと彼女は滑って転んだ。俺は思わず立ち止まって笑う。
「笑うな!」
 自分も笑いながら、貫井は叫ぶ。それを見ながら、思った。楽しいって。
 俺は別に貫井と恋人同士になれなくたって構わない。ただ、願わくは、少しでも長くこんな関係が続くことと、彼女が幸せになってくれたら、と思う。
 俺はきっと、貫井を好いているだけで幸せだから。
「ほら、早く」
 追いついてきた貫井の腕を自分から掴んで、俺は心の底からそう思った。


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