泣き虫元勇者は呪文を唱えない

TOP



 これまで、戻りたいと思った日は幾度もあったし、正直覚えているには長ったらしいその呪文も、今まだ忘れることができないでいる。
 しかし結局、いつだってそうしないでここまできた。
 どんなに辛くて悲しいことがあっても、少し考えてしまうと、答えは「僕はまだここにいたい」としか出ないのだ。


「宮本ってさー、武術とかやってた?」
 深夜二時を過ぎた頃、床にモップをかけながら、青山さんは唐突に尋ねてきた。
「え、なんですか急に」
「ほらこないだ酔っ払いに絡まれた時あったらしいじゃん」
 言われて俺は記憶を巡らせて、すぐに思い当たる。閑静な住宅街の中にあるこのコンビニエンスストアで、酔っ払いに絡まれるということはそうそうない。いつ寝てるんだか分からないような大学生が、エナジードリンクを買いだめする姿なら毎日のようにお目にかかるけれど。
 あの場に青山さんは居なかった気がするが、となりにいたのはオーナーだ。息子である彼には筒抜けだろう。
「お前簡単にいなしちゃったんだって? 剣道とかやってたんじゃないかって親父と岩月が」
 どうなん? とどこか期待するように青山さんが言ったが、俺は残念ながらと笑って首を横に振る。
「いえ、特には……」
 そっかーと青山さんはモップがけの手を止めて、柄の上に手を組んで顎を乗せた。ややあって、思いついた、と言わんばかりの顔をする。
「じゃあ血筋とかか? 宮本だし東京生まれだし武士の出なんだろ」
「武蔵とは関係ないですし、東京生まれだだって武士とは限らないですよ。道産子だからって屯田兵の子孫じゃないですよね」
「そうかぁ? 俺のひいひいじいさん辺りは屯田兵だったらしいぞ」
「……そうですか。ちなみにうちは多分普通の町人かと」
 大分話がずれてきたな、と思いながら、壁の時計を見た。
「あ、そろそろ休憩行きます」
「そーだな。いけいけ」
 ひらひらと手を振った店長代理の青山さんに背を向けて、俺はバックヤードに入ってため息をついた。
――ハルトムート流剣術です、と真面目に答えたところで、下手な冗談だと思われるのが関の山だった。
 そんな剣術、この世界じゃ知っているものは他におらず、ましてやは使えるのも俺だけだ。
 もちろん、自分で考え編み出した、なんてことではない。きちんと師匠がいたし、兄弟子もたくさんいた。――あちらの世界には。
 忘れもしない小五の夏休みの初日、俺は突然異世界に呼び出されてしまった。世界を救う勇者として。まるでゲームのような設定だが、『あちら』で体験したものは、得たものも失ったものも、すべてが現実で、その証拠に最後の戦いのときに受けた傷は、今でも俺の背中に残っている。
 俺のほかにもう一人、救世の巫女として召喚された『こちら』の女の子がいた。
 彼女は今どうしているだろうか。俺は、彼女に会いたくて、東京からはるばる札幌の大学まで来てしまった。
「樹華……」
 天井を仰ぐ。暖房のついていないバックヤードは、冬の訪れ予感させるひやりとした空気に包まれていた。『あちら』の冬も、この北の大地のように厳しかった。
 彼女はもう、あちらに行ってしまったのだろうか。


 あちらの世界を救った後、俺たち異世界に召喚した女神により『こちら』に還されたときに、一つだけ、『こちら』で使える魔法の呪文をもらっていた。
『この呪文は、一度だけ二つの世界を渡ることができる呪文です。ただし、行くことができるだけ。戻ることは二度とできない、片道の魔法です』
 石像のように灰色の顔をした、無表情な女神は静かにそう伝えた。
「戻れない?」
 ジュカはそう復唱して、両手で胸元を握りしめた。それが少女の癖だった。俺より一つ上で、背もすらりと高く、茶味がかった髪は、初めて出会ったとき肩に触れるぐらいの長さだったが、その時は胸の上あたりまで伸びていた。
『あちら』で過ごした時間は一年と一か月ちょうど。少女は、異世界で大人になろうとしていた。
『そう。この呪文を唱えれば、あなたの世界であなたを知るすべての人間からあなたの記憶が抉り取られ、あなたは居なかったことになる』
――よく考えて、お使いなさい。
 女神は静かにそういった。正直にいうと、その時の俺は、使うことのない魔法だと思ったものだ。
 だって、それは、それまで見た中で、一番恐ろしい魔法だ。
 誰からも忘れられてしまうなんて。死ぬことよりも恐ろしい。
 ジュカは、世界と世界のはざまだという異空間の中、口の中で呪文を復唱して、それを飲み込むような動きをした。てっきり俺は、間違って口にしてしまわないように、奥深くまで封印するための仕草だと思っていた。
 大人になろうとしていたジュカに対して、俺はまだ子供だった。大人になって振り返れば、彼女がそれを使ってしまう要素なら、いくらでもあった。
『こちら』に帰れると聞いた時、彼女は一瞬顔を青くして、そして涙したこと。
『あちら』を離れる最後の夜、あの国の王子と二人きりで会っていたのはどうしてか。
 ほかにもある多くのピースが、今、彼女を見つけられないことの理由を裏付けようとする。
――ジュカは使ってしまったんだろうか。あの魔法を。
 帰る前に、教えてもらった電話番号は帰宅一か月後にはすでに使われていなかった。彼女が言い間違ったのかもしれないし、俺が聞き間違ったのかもしれない。
 小学生の一年一か月の失踪は、少なからずニュースになったはずで、実際俺の失踪も生還も小さく新聞に乗ったが、どこを探しても彼女の話が見つからない。女の子だったから、プライバシーを尊重したのかもしれない。
 一年一か月の世間とのズレは、やがて大きな溝となって、俺の前にも立ちはだかった。
 それを肯定することも、完全に否定することもできず、未練がましく俺は北海道まで来た。彼女の通っていたという小学校の名前だけが、ジュカにつながる最後の頼みの綱だった。
 地名を冠したその学校はすぐに見つかった。校区内のコンビニでアルバイトを始めた。オーナーの一人息子が、ジュカと同い年だと知った。
 あとは青山さんに聞けばいい。「水島樹華を知っていますか」と。
 けれどそれが、それだけのことが、俺にはまだできていない。
『どうしてお前みたいな泣き虫が、勇者になんて選ばれちまったんだろうなぁ』
 頭を優しく撫でる、懐かしい面影。
――アーケヘルド。あの時の彼と同じ年になっても、僕はまだ、弱いままだ。

***

「またオヤジにしごかれて泣いたのか」
 あれはまだ異世界にやってきて少ししたばかりの頃だ。
 僕の面倒を見ていたのは、その世界で一番大きな国の、騎士団長ガルヘルムだった。
 アーケヘルドはその長男で、ガルヘルムの右腕として働き、次期団長と目される、優秀な青年だった。
  あちらの世界は魔物の脅威にさらされており、伝説の勇者たる僕は剣を持たされ、魔物の王を倒すために団長の元で毎日剣の稽古をさせられていた。初めて持った健は小学生の僕にはずしりと重く、またハルトムート流剣術は力よりも速さに重きを置く流派で、どちらかといえば鈍くさい子供だった僕に稽古は毎日厳しかった。
 ガルヘルムは口癖のように「なんでこんな子供が勇者なのだ」とため息交じりに言っては厳しく指導にあたり、そのたびに泣いていた僕に、アーケヘルドは傷の手当てをしてくれ、よく桃色の飴を一つくれたことを、よく覚えている。
「なんでこんなに泣き虫のお前が、勇者に選ばれちまったんだろうなぁ」
 それは僕を含め、誰もが一度は口にする文句だった。
「帰りたいか?」
 擦りむいた腕に軟膏を塗ってくれながら、アーケヘルドは静かに尋ねた。僕は口の中でゆっくりと溶けて行く飴玉を転がしながら、鼻をすすって頷いた。
「せめて、お城に行きたい。ジュカは、あそこで楽しくしてるんでしょう?」
 ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、僕はもごもごとそう言った。寺院が後見についた彼女に会えるのは三日に一度ほど。そのたびに彼女は違う美しい衣服を着ており、毎日生傷だらけの僕と違って大切に扱われているのが見て取れた。救世の巫女としての修業は、ほとんどが座学の中心で、彼女は城とそれに接する寺院の外の様子をほとんど知らないようだった。
 情けない僕の言葉に、アーケヘルドはため息をついた。
 失望されただろうかと思ったら、彼は僕の頭をやさしくなでる。
「オヤジはな、お前に早く帰ってもらいたいんだ」
 困ったような笑顔に、絶望的な気分にさせられた。
 アーケヘルドはそんな僕の顔を見て、ハッとして慌てる。
「あ、いや、違う。言葉通りに受け取るな。邪魔とかそういう意味じゃないんだ」
 正しい言葉を探るためか、彼は一瞬視線をさまよわせた。
「早く帰って欲しいのは、向こうの世界でお前を待つ家族のためだ。決して憎くて厳しく当たってるわけじゃない。使命を全うしなければ、お前たちは元の世界に戻れない。無事に帰るためにも、早く、強くならなければ」
「それ、は、分かる、けど」
「もう少しだけ、我慢してやってみてはくれないだろうか。俺もそばで、稽古に付き合う。それでも城に行きたいのなら、俺がオヤジに進言するから」
 彼は七つも年下の子供の僕に向かって、そう深々と頭を下げた。
 それを見て嫌だと言えるほど、僕は子供ではない。分かったと、低いテンションで頷くと、アーケヘルドはほっとした笑顔を見せ、そこまでしてここに居てほしいのかと、僕は不思議な気持ちでその笑顔を見返した。
――このときの俺は知らない。騎士団の反対を押し切って勇者と巫女の召喚を押し切った寺院側は、異世界の子供など簡単に使い捨てるつもりつもりであったことを。
 もしこのとき、我儘を貫いていたとしたら、すぐにでも寺院は魔王討伐隊を編成し、俺は最前線に送り込まれて死んでいたかもしれない。
 ガルヘルムが勇者の後見人となってそれを食いとめてくれていたことを知ったのは、ずっとあと、最終決戦で彼が俺を守って死に、戦後に行われた弔いの儀式でのことだった。
 それを知って泣いた僕にアーケヘルドはいつもように頭をなでてくれた。
「泣くな。オヤジは息子を守って死んだ。俺は、誇らしい」
――命を賭して帰してくれた彼らのために、俺はこちらの世界で、強く生きていこうと思う。


 深呼吸をして、バックヤードを出た。
「青山さん」
「ん?」
 散々迷って、俺はついに例の問いを口にする。
「青山さんの小学校の同級生に、水島樹華っていませんでしたか?」
 商品整理をしていた青山さんは、怪訝な顔をして俺の顔を見返した。
「ミズシマジュカ?」
 彼は小さく首をかしげる。
 絶望的な気分に泣いてしまいそうだったけど、あちらの世界の父と兄に笑われたくないから、唇を噛んで我慢しようと思った。


TOP

書いたの:2014/10
Copyright 2014 chiaki mizumachi all rights reserved.