恋の消火大作戦

TOP



 開け放たれた窓から入る風が、教室の薄汚れたカーテンを膨らませる。
 窓辺に立ってスカートの裾を握りしめる彼女が、揺れるカーテンの向こうに見え隠れしていた。
 なんだろう、この空気。
「ずっと……ずっと好きだった!」
 強い風が吹いて、目の前が真っ白、いや薄汚れた白に覆われてから、その先の記憶がない。


「なあ聞いてくれよ」
「へーそれはすごい」
 ぱちり、と将棋盤の上に碁石を打ち付ける音が部室に響いた。言い間違いじゃない。碁盤じゃないし、将棋の駒でもない。
 少子化の影響を受け、市内の公立高校が一斉に一学年九クラスから八クラスに削減したのは、僕らの一つ上の代からだった。正直いってボーダーギリギリの成績だった僕はその話を聞いてヒヤヒヤしたものの、結果的に倍率は以前と変わらず、合格通知を受け取りながら少子化を実感した。
「まだなんにも言ってないじゃない」
 年に一つずつ、計三つもできた空き教室は二つが物置になって、もう一つは少人数且つ必要な理由が生徒会に認められなかったために部室がそれまで貰えず、校内でゲリラ的に活動していたジプシー部活に解放されている。たとえば僕しかいない、映画研究同好会みたいな。
 教室内は元々どこに使われていたのかすらわからない古びたロッカー、どこの部活の所有かはっきりしない本棚や備品によって細かく区切られ、どことなく秘密基地のような雰囲気がして、僕は好きだ。一応は存在する顧問が古い映画のパンフを自慢しに来る度、ごちゃごちゃしすぎだと苦言を呈されるが。
「なんとなく、お前の顔を見てわかる」
 将棋盤から一切視線を動かさず、戸川は鬱陶しそうに眉間にしわを寄せた。
「ていうかさ、なにしてんの?」
「一人オセロ。お前もどう?」
 じゃら、と碁笥の中身を無造作につかみながら、こちらを見ずにまたぱちり。白に挟まれた四つの黒を、白に取り替え始める。対戦を求めているのではなく、となりにおいてある別の将棋盤を使わないかという誘いだった。
……正直なにが楽しいのかわからない。
 ほぼ毎日ここにきている僕と違い、一週間に一度か二度のペースでしか現れないこの同級生は、自ら『一人遊び研究同好会』を設立し、部室に来ない日も活発に活動しているらしい。もちろん、その名の通り一人で。
「オセロのセットなら、どっかのロッカーに入ってたじゃん」
 パーティション代わりのロッカー群を指差したが、相変わらずぱちりぱちり、今度は返事すらしない。
 いや違う、こんな話をしたくて僕は映画も見ずにわざわざ戸川のいる狭くて息苦しい区画に来たわけじゃないんだ。
「話を戻すけど、なあ聞いてくれ」
「戻すなよ」
 鬱陶しげな調子で戸川が言うが、かまわず続ける。
「さっき告白された」
 再び碁石を掴んだ手が止まり、やっと戸川がこちらを見た。眉間に皺を寄せたまま、口を縦に開いていて、思わず「こっち見んな」と言いたくなるような面白い顔をする。
「どこのどいつだそんな物好きは」
「ちょいちょいひどいなお前は!」
 いや逆に言えば気安いのだろうか? 戸川といえば中学からいつも教室の隅で一人、何を考えているのか分からない顔で何が楽しいのか分からないことをしているので、想像するまでもなく友達は少ない。そんな戸川が僕には他では考えられないようなこんな態度をとるのだから、うん、きっと僕は戸川にとっては他の級友とは一線を画するような大事な友達なのだ。たぶん。
「今気持ち悪いこと考えてるだろ」
「えっ?」
 それはさておき、そう、告白された。
「失礼な、僕だってこう見えて幼稚園の頃は女の子をとっかえひっかえして遊んでたんだぞ。モテ期は人生三度あるんだから二度目が来たっておかしくないさ」
「幼稚園の頃は、さえなけりゃそれなりに驚く話なのにな。あとたった一度告白されたからってモテ期とは限らない」
 戸川はつれない。「で、誰」と話を急かす。
「それが、トン子でさ」
「なんだ」
 僕の言葉に戸川は急速に興味を失った顔をした。手の中の碁石を数えて、また一人オセロに戻ろうとする。
「ホントまじどうしよう!」
 僕は頭を抱えてみせたが、戸川は手の中の碁石を数えている。こっちは相談したくて話を振ったのに、そんな態度はひどいじゃないか。
「お似合いだと思うぞ。幼馴染だろ」
「だって、トン子だぞ! そんな風に見たこと一度もない!」
 トン子、こと向井桃子と僕は戸川の言うとおり、母親同士が親友で、産まれたときから知り合い状態の、よくいう幼馴染だ。昔は違ったけど、今はマンションも同じところに住んでいて、家族ぐるみで付き合いがある。先週末だって我が家で両家一緒に夕飯を食べたのに、今更好きだなんて言われても困っちゃうのだ。
 そもそも「幼馴染だろ」、って幼馴染を一体なんだと思っているんだろう。幼馴染で彼氏彼女、みたいになれるのはフィクションの中だけだと僕は思う。
「どこが不満なんだ、顔だって中の上、胸やスタイルもそれなり、バカじゃないし、バレー部の部長で面倒見もいい。鈍間でおっちょこちょいで運動神経が切れてて、ガリで猫背で好きな映画を語らせたら止まらなくてうざいオタク筆頭な野元にはちょうどいいだろ」
「その組み合わせでちょうどいいと思う感性が分からない! あと後半辛辣すぎて心折れる! 折れた!」
 僕は長机に突っ伏す。が、しばらく拭き掃除をしていないことに気づいてすぐに顔を上げた。誰でも使える部室故、誰かがするだろうと他力本願になりがちで掃除を怠りやすい。
「……トン子はいやだ……」
「だからどこが不満なんだよ」
「会うたびちゃんと勉強してるか聞くとことか、夜更かしして映画見ると怒るとことか、あとハンバーグに人参みじん切りにしていれるとこ。あれがなきゃ美味しいのに」
「子供か! てかもうそれ一緒に住んでるレベルの愚痴だぞ!」
 そうかなぁ。せいぜいあいつん家に行くのは一週間の半分ぐらいなんだけど。
 首を傾げていたら、もう一つ思い出した。
「あっ、あとホラー映画!」
「えいがあ?」
 もはやうんざりした調子で戸川が首をかしげた。
「こないだ行ったときみんなでホラー映画見たんだよ。レンタルした奴。そりゃもうめちゃくちゃ怖くて」
「でもお前そういうのが好きなんだろ」
「うん。面白かったんだけど」
 簡単に言ってしまえば引っ越してきた家に幽霊がでる、という物語だった。思い出すだけで身震いする。あの日の夜は、もし目を開けたときに居たら、と思うと目を瞑るのも怖かった。
「なのに! あいつ平気でゲラゲラ笑ってたんだよ! 信じられる? 僕はもっと繊細な子がいいんだ!」
「へー」
 戸川は碁石を並べはじめ、思いっきり棒読みだ。
「そういうわけで、どうやって断ったらいいかなぁ。あいつのことだから怒るよなぁ」
「知らん。そこまでナイと思ってるなら、なんでその場で断ってこなかったんだ」
「言い逃げされたんだよ」
 顔を真っ赤にしたまま、ダッシュで逃げられてしまったら、足の遅い僕がトン子に追いつけるわけがない。
「どうしよう、戸川ぁ」
 僕が泣き付くと、戸川は手を止めてため息をついた。
 フレームが半透明の緑色したプラスチックでできているみたいな、いわゆるオシャレメガネを中指で押し上げると、蛍光灯に反射してレンズが怪しく光る。
「仕方ないなぁノモトくんは」
 返って来たのは、何故だかどことなく甲高い声だ。
 隣のパイプ椅子に置いてあったリュックサックを引き寄せると、ポケットのあたりをまさぐり、取り出す。
「そんな時にはこれ、テッテレー! ラブ・イレイザー!」
 わざわざ効果音を口で言いながら、小さな瓶を天井に向けて掲げた。そこまでやらなきゃ、正直言って何の物真似なんだか分からなかった。
「はあ。なにそれ、香水?」
「説明しよう。これはその名の通り愛を消す道具なのだ」
「元ネタ統一しようよ」
 呆れながら、僕は戸川の手の中の瓶を見る。何の変哲もないシンプルな四角いスプレーボトルだ。中に入っている液体も、無色透明で、これといって特徴もない。
「これを一吹きすれば、あら不思議、それまで愛をささやいていた彼女も、ゴミくずを見るような視線をくれるぞ!」
「こわっ!」
 僕は少し瓶から身を引いた。どういう仕組みなのそれ。ものすごく臭い、とか?
「そういうのどこで手に入れてくるの?」
「今朝駅前で謎の露天商から買った」
「危な! 危険なヤツだったらどうすんのそれ……」
 それでなくても今、なんたらハーブとかニュースで流行ってるんだからさあ。
「そもそも何のためにそんなの買ったのさ」
 用途が分からない。ストーカーに嫌われたい、という使い道ならありそうだけど、僕が見た限り戸川にそんな様子は一切ない。
「きみはじつにばかだな」
 似せるつもりがあるのかすら全く不明なただの高い声で言って、戸川は小瓶を机の上に置く。僕も調子を合わせてトガえもんとか言って返すべきなんだろうか。
「これを使えば通りすがりの綺麗なお姉さんに見下してもらえるんだぞ!」
「変態だー!」
 思わず叫んでさらに身を引く。ドン引きだ。
 そんな僕をよそに、変態は置いたばかりの小瓶を僕の方に滑らせてから、机の上に肘をついて手を組む。
「そういうわけで惜しいが、貸してやろう」
「いやあ……大丈夫なのこれ……」
「一回五百円で」
「お金とるの!?」
 ますます不安になるんだけど。
「の、ところを今回は一回百円、さらに送料は弊社が負担、大変お得な商品です!」
 更に甲高い声。そっちも似てないが、やる気と引き出しはたくさんあると自分で思っているであろうことは感心する。
「えー」
「文句言いながら財布出すなよ」
「まあ百円なら……ホント大丈夫なのこれ」
 何度も何度も大丈夫かと尋ねる僕に答えず、百円玉を受け取った戸川は、にやりと笑って壁の時計を見上げた。
「実験台おつ。じゃあ行こうか」
「えっ、今から?」
 胸がどきどきしてきた。


 夕暮れも近い学校の玄関で待っていると、部活を終えてジャージのままのトン子が体育館の方からやってきた。同じバレー部の子たちと一緒だったけど、トン子は僕を見て目を丸くした後、また顔を赤くして立ち止まる。
「ごめん、先帰ってて」
 そんな風に言っちゃったら、なにかあると思われるんじゃないかと僕は思ったが、すでに同じ学年のバレー部員には事情を知っているようだった。まじかぁ恥ずかしい。
「ファイト!」
 ニヤニヤしてトン子の背中を叩くと、僕らに手を振ってキャアキャア笑いながら下校していく。
 僕は手の中の瓶を強く握りしめて、一瞬だけ横目で下駄箱の影にいる戸川を見た。相変わらず何を考えているのか、いやたぶん今はこのラブ・イレイザーとやらが本当に実用性のあるものか知りたがっている顔なんだろうけど、兎に角一見よくわからない顔のまま親指を立てた。
 なんだか、緊張する。
「な、なに?」
 トン子は両手を後ろで組んで、もじもじとしている。
 あれ、なんか女子っぽくて可愛い……?
 でも、らしくない。こんなトン子はらしくない。もっと活発でうるさくて、登下校中に僕を見かけたら、それこそさっきのバレー部員みたいに、僕の背中を痛いくらいに叩くのがトン子だ。
 すでにキャップを取っているラブ・イレイザーをトン子の前に突き出した。きょとんとした顔をする彼女に、ためらうことなくワンプッシュ。
「ひゃあ!」
 出てきた霧に、トン子が腕で顔を庇いながら奇怪な悲鳴を上げた。
 僕にまで害があるほど臭かったらどうしようかと思っていたけど、意外にも空気には甘い匂いが満ちて、沈黙が落ちる。
「え、なに、これ、香水?」
 匂いとは裏腹に、重苦しい空気の中で、ゆっくりと腕を下したトン子が低い声を出して尋ねる。怒っているような声だ。
 駄目でもともとだと思っていたけど、もしかして、効いた?
「え、ええっと、うん」
 僕が瓶を下げて頷くと、トン子は顔をしかめ、再び肘のあたりで顔を隠した。
「あたし……汗臭かった?」
 顔が赤い。夕日の色みたいに。
 それが怒っているのではなく、恥らっているのだと気づくのに、鈍感な僕は数秒を要した。
「そ、そうじゃなくて! 戸川! 戸川が貸してくれて! いい匂いだから!」
 その間にその目にうっすらと涙の膜が張っていくのを見て、僕は慌てて言い訳を並べる。
「とがわ……ホント……?」
「ホント!」
 言い切ると、トン子がぐずぐず鼻を鳴らしながら俯き、Tシャツの襟もとのあたりを引っ張って涙をぬぐう。ああ、それすると伸びてヨレヨレになっちゃうからおばさん怒るのに。幼稚園の頃から変わってない。
 そう思いながら、トン子、昔は泣き虫だったなと思い出した。小学で男子と取っ組み合いの喧嘩をして負けたときだって、中学でバレーの試合に負けたときだって、僕の前では決して涙を見せたりしなかったのに。
 そんな桃子がこんなことで泣きそうになるなんて。
「うん……たしかに、いいにおい。バニラアイスのにおい」
 恥ずかしそうに少し片言になりながら、桃子はTシャツから顔を上げてはにかんだ。
 ああ、あれ? やっぱりなんか可愛く思えてきた。
「か、帰ろう。お前が続き気にしてた、映画の続編のDVDが届いたって、母さんからメール来てた」
 僕が手を差し出すと、桃子もうんと頷いてその手を掴む。汗ばんでいるのは、桃子じゃなくて僕の手の方だ。
「……やれやれ、無駄な時間だった」
 ため息交じりの戸川の声が聞こえた気がしたけど、僕は聞こえないふりをした。


TOP

Copyright(c)chiaki mizumachi 2014 all rights reserved.