懐郷病とは無縁だった。外の世界なんて二度と戻りたいとは思わなかった。ここで訓練に明け暮れて、兵士になって、戦地で死ぬ。あのままくたばるくらいなら、これでいいと思ってた。
でもあまりにも、シバが泣くから。
つい、言ってしまった。
「そんなにここが嫌なんだったら、逃げればいい」
「そんな、そんなの……む、無理だよ」
「だったら……オレが逃がしてやるよ」
思いつきで、気まぐれのようなものだった。毎晩薄くてカビた臭いのする布団を被って帰りたい、人を殺したくないと泣くシバを、これ以上見ていたくないとも思った。昔なら殴りつけてでも泣きやませていただろうに、不思議とそういう気分にはならなかった。
突発的な逃避行は結局三時間半しかもたなかった。散々懲罰房でオレを殴りつけた後になって所長は「新記録だ」と全く笑っていない顔で高笑いした。
「罰則は一週間の禁固にしてやる。お前は優秀だからなぁ、ノラ」
懲罰房に突っ込まれたと同時に短く刈られた髪の毛を掴まれながら、笑えと命ぜられ、オレはその通りに口角を上げながらヤツの顔に唾を吐きかけた。
「おーい、生きてるっすかー」
頭上から降り注いだ声に、オレは朦朧としていた意識を覚醒させる。同時に無理矢理口に突っ込まれていたままだったボロ布が口の中から落ちて、血と唾液と胃液を含んだそれは一度オレの腹の上に落ちたあと転がって足元にべしゃりと重たそうに落ちた。
「ヤモリ……か。ここ何階だと思ってやがる」
「この程度なら地上と変わらねぇすよ。オイラを誰だと思ってんすか」
得意げな声に鉄格子のはめられた窓を見上げたが、角度が悪いのか、それとも散々殴られて目がおかしくなったか、辛うじてヤモリの影だけ、ほとんど青空しか見えなかった。懲罰房は悲鳴や呻きが届かないよう隔離された高い塔の上にある、ヤモリは十歳までサーカスに居た。そこで仕込まれた数々の軽業の技術はサーカス団脱走後には盗みに利用され、オレも大いにその恩恵にあずかった。
「ひっでぇ有様っすねぇ。気分はどうです?」
「最高だよ」
「そりゃ、なによりで」
愉快そうな声にオレはムゅとして床に転がったままのボロ布を蹴り飛ばし、ギリギリ届くか届かないかの位置に置かれた食事のトレイを引き寄せようと試みる。
トレイに置かれたパンは踏み潰され、野菜クズが申し訳程度に入ったスープがひっくり返されていたが、ないよりはましだ。
飢えはなによりつらい。それがオレが生きてきた十六年のすべてだった。
「ノラが脱走なんて耳を疑ったっすよ、どういう心境の変化で?」
「べつに」
壁に片手を拘束されたまま、全身を伸ばしてつま先をトレイに引っ掛けようとする。とんでもなく無様な姿だ。
足先はギリギリ届かない。ほんの爪の先が引っかかったと思ったら、あっけなく空を切る。
「なっさけねぇすねぇ」
ヤモリがくすくす笑うから、オレは格子の外の影を睨む。被ったねずみ色の帽子のツバだけが見えた。
「お前オレを笑いに来たのか」
「まあそれもあるっすけど。飢えてると思ってパンを持ってきたんす」
「早く言え」
「まあまあ待ってくだせぇ。届くかなっと」
白い手が格子の隙間から伸びて、ひょいと塊を投げた。残飯よりもひどい有様のトレイの手前、オレの足元に半分食べかけのパンがむき出しで転がってきた。足で引き寄せ、爪を剥がされ、たばこを押し付けられて火傷だらけで感覚のなくなった左腕でなんとか掴む。水すら飲んでない状態で乾ききったパンは中々飲み込めなかったが、オレは一心不乱でパンにかみついた。
「大丈夫そうっすね」
あらかた飲み込んだところで、頭上からヤモリがほっとした声を出した。
「……助かった。ありがとな」
「いーえ」
格子から覗き込むヤモリの顔は逆光のせいか、うまく見えない。
オレは目を細めて、大人たちがニヤニヤ笑うだけで最後まで教えてくれなかったことを尋ねる。
「シバは……どうなった?」
返事はしばらく返ってこなかった。
ヤモリも知らないのかもしれない、そう不安になったころに、ようやく声が返って来た。
「明後日、ノラがここから出てきたら、次はオイラとシャムの三人部屋っす。部屋は狭ぇし汚ぇし、シャムは性格悪くていけ好かないヤツっすけど、オイラとノラの二人ならどこででもやってけるっすよね」
――二度とシバとは会えない。
暗にそう言われ、オレはゆっくりと息を吐く。
この施設に収容された子供は偶数だった。別の施設に移されたか、それともあるいはもっと最悪の――。
どちらにせよ、そういうことだ。
「なあ、ヤモリ」
「なんすか」
「お前、ここから出たいと思ったことあるか」
「ないすね。教官は鬼だし戦闘訓練は地獄だし、規則は窮屈ですぐ懲罰房にぶち込まれるけど、でもここじゃ飢えないし寝床があるっすから。外よりマシっす」
「……オレもそう思う」
でもシバは帰りたいと言って泣いた。外の世界に居たころに、オレとヤモリが求めていたものはすべてここにある。なのにだ。
シバの知っている外はオレの知っているものと全く別のような気がした。暖かくて優しくて、苦労とは無縁の、そんな世界のような気がした。
「そんな世界、外にあると思うか?」
オレの問いに、ヤモリは逆光の中で薄く笑ったような気がした。
「ないっす。あっても、そこはオイラたちの世界じゃないっす。だから、あっても行けない」
諭すような声に、オレは思わず俯いた。
「あ、上官だ。もう行かなきゃ」
じゃあまた、オレの返事も待たずにヤモリの気配が消える。
影がなくなり遮るものが格子だけとなった、もうどこにもつながらないはずの青空が、今は恨めしかった。
書いたの:2015/6/3
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