感謝祭の休暇を前に、精霊魔術研究所の廊下は帰省の荷物を持った研究員が多く慌ただしい。
メロディはその群れの間を縫うように小走りで制服のマントを翻し、とあるラボの前で立ち止まる。
「あら、遅かったわね」
足元に広げたトランクの中に分厚い本を押し込みながらメロディを一瞥してそう言ったのは、この部屋の隣のラボの主であるはずのアンリエッタだ。
部屋の中はがらんどうで、昨日までは確かにぎっしり分厚い本が詰まっていたはずの本棚は空っぽで、精霊の召喚に用いられる釜も伏せられ、召喚の媒介用のエレメンタルシードを貯蔵する壺もすっかり片づけられてシードのかけらすら落ちていない。
一時の帰省のための片づけなら、ここまで根こそぎなくなっているはずはない。
「どこかへ行っていったの? クラウスはとっくに出て行ったし、クラウスが遺して行ったものはもうみんな粗方他の奴らに持って行かれちゃったわよ。なんなら分けてあげてさしあげてもいいわよ、この本以外ならね」
たった今無理矢理押し込んで閉じたトランクを指しながら、アンリは何処ととなく意地悪く笑う。
メロディはすぐには答えず、昨日まではこのラボの一番奥で、部屋の主のように鎮座していた大きな水槽の跡が床にくっきりと残っているのを見下ろしてため息をつき、首を横にふる。
「別に、何か欲しかったわけじゃありませんわ」
「そう? あんたクラウスと仲良かったし、形見になにか欲しいんじゃないの?」
「まるで死んだみたいな言い方をしますのね」
「似たようなものじゃない、除籍なんて。精霊魔術師的には死んだようなもんよ。もう多分、二度と会うこともないでしょうし」
アンリな口を尖らせた。子供のような表情に、メロディは呆れてただ肩を竦める。
「じゃあ何しにきたの? あんたも実家帰るんでしょ? 早く用意しないと、バス行っちゃうわよ」
重たそうなトランクを両手で持ち上げると、アンリの肩の上でトカゲに似た炎の精霊、サラマンダーがチロチロと長い舌を揺らしながらバランスを取るように荷物とは反対側の肩に移動してしがみつく。
メロディは少しの間だけ水槽の跡を見つめたあとに、小さく「確認しに」と呟いた。
「確認? ああ、急だったものね。あたしもまだ信じらんない」
納得した様子の彼女を尻目に、メロディは気づかれないように小さく首を振る。
「そういえば」
そろそろ行くわねと部屋を出て行こうとしたアンリが立ち止まる。
「クラウスの精霊図鑑が行方知れずなんだけど、知らない?」
メロディがゆっくり振り返ると、アンリはすでに答えを決めつけていた。
「まあ知るわけないよね。持って行ったのかしら」
今度こそ出て行ったアンリを見送るとメロディもラボを出て、彼女の行く先とは反対方向にある自分のラボへと向かう。
――消えた本の行方なら、メロディは知っていた。
「主よ。ご命令通り、主の不在中に帰って来た第二班に補給させて再度西方へ採取に出向かせた。第一班はエキドナ討伐の戦果をあげて帰還し、今は休息させている」
「そう、ありがとう」
戻るなり、ラボの留守を守らせていたイフリートが傅いて不在時の出来事を報告する。予想されたこと以外は起きていない。大丈夫、今日も彼女の精霊たちはシステマチックに廻っている。それでもなんとなく安堵のため息が漏れそうになって、そっとメロディは息を吐く。
「エキドナ討伐ご苦労様。みなにはエレメンタルをたっぷり補給させてあげて」
椅子に体を預けると、イフリートは筋肉隆々とした腕を組み、じっと睨むようにこちらを見つめた。
「顔色が悪いようだ。主の方こそ、ティターニアを喚んだほうで癒しを施された方がいいのではないか?」
「大丈夫よ、疲れただけよ」
「ならなおのこと休むべきでは」
「大丈夫だって言ってるでしょう」
視界を遮るように書類を広げれば、イフリートが肩を竦めてその場から消え去る。否、退去を命じていないのだから、私から見えなくなっただけで存在はしているのだろう。熱っぽい気配はそのままにある。命じたことは遵守し、命じてないことはしない、これは彼女のラボでの絶対のルールだ。
彼女の持論だが、精霊魔術師には二種類ある。精霊を道具と思っているか、精霊を友人と思っているかの二種類だ。
メロディは前者だ。アンリエッタは多分後者だろう。
隣室のラボの主――クラウスも前者だった。少し前までは。
机の一番下の引き出しから真っ黒に焼け焦げた本を取り出した。表紙だけではなく中まで燃えており、何が書いてあったかはもう読み取ることができない。
これが、件の消えたクラウスの精霊図鑑だった。
これはクラウスが、彼がもっとも愛したウンディーネを失う前まで結んだ精霊たちとの契約書をまとめたものだった。精霊魔術師にとっては命よりも大切なこの本が、彼自らの手によって火にくべられたところをつい出来心ですくい上げてしまったのは、彼が居なくなる数か月前のことだ。
休暇の帰省の荷物はもうすでにまとめてあるが、メロディは立ち上がる気力も、イフリートを呼び戻して帰省中の方針を指示する気力も沸かなかった。
クラウスの本は、メロディのそれよりも早く分厚くなっていった。発見が報告されている精霊をあと一歩でコンプリートできるというところで、彼は些細なミスから精霊を失った。
一個体が失われても、精霊界には同種の精霊が多数存在する。失ったのなら、また補充すればいい。メロディには、それだけの話のように思えた。けれどクラウスは、そこで躓いて、二度と立ち上がれなかった。誰もが彼の挫折を予想だにしなかった。
どちらかといえば精霊魔術師としては中堅以下にあたるアンリでさえ、同じことが起きても一週間落ち込んで、そのあと必ず立ち上がるはずだ。それをクラウスが出来ないとは、誰も思わなかった。
――精霊魔術師としては死んだようなもの。ライバルが減ったと思えばいい。
彼女の同僚たちは皆一様にそう言って、彼の遺した有益なものを漁りつくしてしまったけれど、メロディはゴミ同前の本以外、手に取る気にはなれなかった。
なぜだろう、と自問する。
「……憧れていたのよ、多分」
メロディは自答して、少しでも無理に触れれば壊れてしまいそうな本を再び仕舞い込む。
教訓だ。彼はいつでも彼女の先を行った。道は違えてしまったけれども。
引き出しから顔を上げたとき、ことりと机の上に音がした。
白いティーカップの中に、赤い紅茶が注がれている。
――命じてないことはしない、それはこのラボ絶対のルールだ。
「罰ならば然る後に」
姿なきイフリートの声がした。
メロディは苦笑しそうになるのを堪えて、努めて真顔でティーカップを持ち上げる。
甘い砂糖の入った紅茶を飲みながら、本当は苦いコーヒーのほうが好きなのよ、とは言わなかった。
書いたの:2016/7/9フリーワンライ企画にて
お題:消えた本の行方 甘い紅茶と苦いコーヒー
Copyright 2016 chiaki mizumachi all rights reserved.