1.B棟四階の魔女

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 その日、私は魔女を見た。
 どうして魔女だと思ったのかは分からない。私がSF好きだったならば、空に向かって高速でジグザグに飛ぶ、あれはUFOだと思ったかもしれないけど、でも魔女だと思ったのだ。
 それにだって、箒で飛んでいるように見えたし。
 そして魔女だかUFO―とは未確認飛行物体であるのだから、未確認である以上、正しくはあの魔女もUFOなのだけど―だか分からないモノは、途中、グラウンドのバックネットあたりでぐいっと飛ぶ方向を垂直にし、空の彼方へ消えて行った。アニメならきっと星になってきらりと光る演出がされていただろう。
 そう考えると、うーん、やっぱりUFOだったかもしれない。

――と言う話を、夕食後にテレビを見ながら三つ上の兄に話した。
「B棟四階には魔女が出る」
 番組の終わりと始まりの狭間の、どこもCMばかりで見るものに困る時間、忙しなくリモコンでチャンネルをパカパカと変えながら、兄ちゃんはそう言った。
「なにそれ」
 私は暇つぶしに読んでいた漫画雑誌から顔を上げた。
「そう言う噂を聞いたことがある気がする。七不思議の一つ。よく覚えてないけど」
 年齢差で一緒に通うことは出来なかったけど、今大学一年生のアニキはうちの高校のOBだ。
「なにそれ。七不思議?」
 私はそう繰り返した。高校生にもなってそんな怪談めいた話を大学生のアニキから聞かされるとは思ってもいなかった。小ばかにしたように聞こえたのだろう―実際、少ししていた―兄は拗ねたように口を尖らせ、テレビのリモコンを横に放って上半身をソファに沈みこませる。
「もういい。教えてやらん」
「ごめん、教えて」
 テレビからは、刑事ドラマの冒頭が流れ始めている。そのまま二人ともドラマに集中して有耶無耶になるのかと思いきや、番組テーマが流れた合間にアニキは静かにこういった。
「出会えたら、願いが叶うんだってさ」



 私には現在、友達がいない。
 不幸に不幸が重なって、高校デビューに失敗したのだ。
 我が札幌日照高等学校は、入学式の翌日からいきなり一年生の宿泊研修が行われる。昨日知り合った人がほとんどなのにいきなりだ。そこで色んな親睦が行われたらしい。
 らしい、というのはつまり私は参加出来なかったということで。
――嗚呼、おじいちゃん。
 それを思うと思わずため息が出る。恨みたいけど、恨む気にもなれない。
 不幸だったのだ。入学式のあと、私を一番可愛がってくれた母方のおじいちゃんが亡くなった。前日まで元気に私と電話で話したのに、突然のことだった。だから宿泊研修は忌引きで休み、おまけにそのあとショックからか私は熱を出して、二日休んだ。
 土日を挟みやっと学校に来れたと思ったら、もうほとんどクラスは私が居ない状態で出来上がっていたのだった。
「それでも挽回できると思ってたんだけどなぁ」
 一人で弁当を広げながらため息をつく。これが教室の隅のならまだしも、私の席は教室のど真ん中だ。早弁なんかでクラス全員が食事するわけじゃないはずなのに、なぜか私の周囲では机をくっつけあってお昼を食べる集団ばかり。余計に一人が目立つ。
 どんだけツイてなけりゃ気がすむのか。
 まあ、入れて、って気軽に言えない私も悪いんだけど。
 友達を作るのは苦手だったのに、なんで中学三年間の内に忘れてしまってたんだろう。こんなことなら、少しでも友達の多い学校に進学すればよかった。いや、みんな何故か私立(この地域は、公立の方が私立よりランクが高いのだ)行ったんだよなぁ。学費免除取れなかったし駄目だ。
 そんな今更すぎる後悔を毎日ぐるぐる考えながらお弁当を急いで食べ、教室の居心地の悪さに耐えられなくなって廊下へ出る日々。とはいえ、行くあてなんて全くない。昨日は図書室に行ったけど、今日も行こうかな。漫画ならともかく文字の本にあんまり興味ないんだけど、偶然クラスメイトと出会って顔を覚えてくれるかもしれないし。
 教室のあるA棟から、渡り廊下を通って図書室や実習教室のあるB棟へ向かう。途中で子供っぽくギャアギャア騒がしく追いかけっこをする男子たちとすれ違い、より一層みじめな気分になった。中学ではからかってくる男子をよく追いかけたな……。当時は嫌だったのに、今はそれすら懐かしくて恋しい。
 駄目だ、病みつつある。
 友達が欲しい。
 階段を無心でのぼって三階まで来て、昨日聞いたアニキの言葉を反芻する。
――B棟四階の魔女に出会えたら、願いが叶う。
 願いか。願いならそう、友達が出来ますように、だ。大勢なんていらないから、一人でもいいから。小学生とか幼稚園児みたいだな。
 昨日のUFOは、魔女と出会ったことにならないのかな。B棟四階じゃなくて玄関の前だったから、やっぱり魔女じゃなかったんだべか。
――なら、行ってみたら会えるんじゃないか。
 どうせあてもなかったのだと、私はそのまま四階へと歩みを進める。B棟の最上階である四階まで足を踏み入れたことはなかった。校舎の見取り図から情報では、格技室と美術準備室、それとポンプ室があるだけの階だ。他の階と違って、半分は屋上―ルーフバルコニーと表現したほうが正しいかもしれない―になっているようだけど、もちろん普段は閉鎖されているし、芸術に音楽を選択した私の様な女生徒はあまり縁のない場所だ。生徒の何割かは訪れることなく卒業しそうだ。
「……誰も居ない」
 四階はひっそりと静まり返っていた。ここが平日の学校であるということを忘れてしまいそうなほどで、少し感動を覚える。
 これは―昼休みの暇つぶしにいい場所かもしれない。
 一人でいたくないけど、一人でいたい、そんな複雑な私に。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、私は廊下の窓から外を眺めた。そこからは生徒玄関と、普通教室が並ぶA棟が見える。三年生らしき女子が二人、窓辺で楽しげにお喋りに興じているのが見えた。ということはこちらも向こう側から見えるのだろう。あっちはは気にもしないだろうけど、万が一にも見られたくなくて、すぐに窓から離れる。
――やっぱりどこにも居場所なんてないのかな。
 数分前まであんなに目の前が開けた気分になったのに、その気持ちはあっという間にしゅるしゅると萎んでいく。ふうとため息をついた、その時。
 ガタン、とすぐそばでドアが開く音がした。
「ぎゃあ!」
 誰も居ないと思っていた私は思わず飛び上がる。
「うわっ」
 それは相手も同じだったのだろう。向こうも驚いた声を出した。低い、男子の声だ。
 振り返ると、美術準備室から弁当包みを持った眼鏡の男子生徒がこちらを見ている。
「びっくりした……」
 彼はそう言って私を驚いた顔で見てから、ポケットから可愛いマスコットのついた鍵を出して、準備室の鍵を閉めた。ガチン。折れるような嫌な音だったけど、別にそれが通常らしい。鍵穴から抜かれた鍵がポケットに戻るのを、私はぼさっと立ったまま見つめていた。
 美術準備室のドアの窓にはポスターが貼られていた。
『ようこそ、オカルト研究同好会』
 新聞の文字を切り抜いて作られた、怪文書のようなポスターだった。どうやら部室にしているらしい。昼休みを部室で過ごすというのは、意外と聞かない話だ。昼休みに校内放送を流している放送部ぐらいだと思う。ほとんどの部にとって、昼休みは活動の時間ではないからだ。一応進学校の部類に入る我が校は、数こそあれど部活動にそこまで力を注いでいない。
 オカ研の彼は立ち尽くした私にニヤリと笑って人差し指を唇にあてる。
「ナイショね」
 私は思わず頷いていた。何故だか逆らえない気がした。
 私の前を通り過ぎていく彼の足元を見ると、上靴には青いラインが入っていた。学年ごとに色分けされているので、彼が三年生だと分かる。特別イケメンだとか背が高いとかではなく、失礼だけどどこにでもいそうな顔をしているのに、何故だか目が離せない。
――永和
 上靴のかかとにはそう名字が書かれている。
「そろそろ予鈴が鳴るから、急いだほうがいいよ、染井さん」
 オカ研の彼―永和先輩が階段を下りながら、歩みを止めずに少しだけ振り向いて私に言った。ずいぶん長いことぼんやりしていた気がする私はそれでハッと我に返る。
「なんで私の名前……」
 永和先輩が階段を折り返して見えなくなり、私の問いをかき消して昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。



 もやもやしながらもぼんやりと午後の授業を受けて、そのままぼんやりといつものように三年しかない高校生活の一日が終わろうとしていた。こんな風に日々を消費するように私の三年は終わってしまうんだろうか。
 帰宅する生徒たちの人波に流されて靴箱からローファーを取り出した。靴箱を置き勉の場所に利用する生徒が多いらしいけど、私は使ってない。だから外靴を出すと上靴をしまうまでの一瞬、靴箱はがらんと空になる。当たり前なのに、とても空虚に感じる。まるで私の一日みたい。
「ソメちゃん!」
 上靴をほとんど投げ入れるようにしまって靴箱の扉をしめると、横からそう声をかけられた。
 一瞬、誰の事か分からなかった。そんなレベルで久しく呼ばれてないあだ名だ。
「……尋美?」
 中学の同級生だ。今はたしか隣のクラスだったかな。隣の隣だっけ? 九クラスもあるので、なかなか元のクラスメイトの居場所も覚えていられない。
「二組だよ! よくすれ違うじゃない!」
「そう……だっけ」
 もう、と尋美は苦笑いしてから、少し離れた場所の自分の靴箱に教科書を放り込んだ。外靴は取らないまま、扉を閉める。帰るわけではないようだ。
「これから部活?」
「うん、そう、化学部」
 薄くなったスクールバッグの中身をととのえながら、尋美はそう答える。化学部なんてあったんだ、あんまり尋美のイメージじゃないな。と思ってから気が付いた。
――部活。部活か。考えてなかった。
 運動は得意な方ではないので体育会系はスルー、文化系かつ大所帯で目立つ吹奏楽部と放送部もノリが体育会系と聞いて敬遠していた。他に何があったか、新入生歓迎集会で説明もあったはずなのに、あの頃は意識が飛んでいて全く思い出せない。
「化学部って……どんなことしてるの?」
「えっ興味ある?」
 パッと尋美の顔が輝いた。二人の間にあった一クラス分の下駄箱の距離をさっと詰めて、尋美はぼさっとしている私の手を取った。
「うち部員少なくて! ちょっとでも気になるなら見学に来て!」
「え、あ、はい」
 思わず敬語になって頷く。予想外の食いつきに、申し訳ないけれど正直少し引いた。
「あ、でも今日は、用事があって」
 無理かな……と尻つぼみになりながら嘘をつくと、分かりやすく尋美は肩を落とした。
「じゃあまた今度! 活動は月水金だよ! 場所は第一理科室、ぜひ来て!」
 それでも食い下がって尋美は言い、「絶対ね」と念を押してから部活へと向かった。中学では見たことのなかった熱心さを意外に思いつつ、私は外靴を履いて正面玄関を出た。
 中学の頃、尋美は割と派手な子ばっかりなグループに属していて、でもそのグループのいつも隅っこで控えめにニコニコしているような、そんな子だった。たしかリーダー核の子が同じ小学校だったんだっけ。高校は分かれてしまったようだけど。
 だからあまり積極的に話す関係ではなかった。理系だったことも知らない程度に。
 玄関から出てすぐに、私はふと立ち止まって空を仰いだ。昨日魔女らしきものを見たのはこの場所だったけど、今日はどれほど目を凝らしても見えなかった。ぐるりと見渡せば、昼休みに上から眺めたB棟の四階の廊下の窓が見えた。
「オカ研、か」
 昼間会った先輩の顔を思い出そうとしたけれど、元々人の顔を覚えるのが得意でない私はすでにぼんやりとしか思い出せない。
 オカルト研究会と名乗っているのなら、学校のオカルトである七不思議の一つや二つ、詳しいんじゃないだろうか。ましてや部室のある『B棟四階』の魔女だ。うん、逆になんの関わりもない方がおかしい。
 そう思い至って、私はくるりと体の向きを百八十度後ろに回転した。どうせ暇だ。何もなかった一日を、せめて少しは何かあった一日にしたい。校舎に逆戻りして、私はB棟の階段を駆け上る。気まずいので尋美と鉢合わせしないことをほんのり祈りながら。
 放課後のB棟四階は、昼休みと違って賑やかだった。
 格技室から、柔道部と剣道部の練習の音が聞こえる。何度も続く倒れる音は、開きっぱなしの扉をちらりと見たら受け身の練習の音だった。けれども廊下の反対側、オカ研の部室がある方は相変わらずひっそりとして人の気配がなく、ここまで来て活動してなかったらどうしようかと今更考えた。昼に居たからといって毎日やっているとは限らない。
 オカ研と書かれたポスターの貼られたドアの窓の、僅かな隙間から室内をこっそりと窺う。あ、人がいる。じゃあ大丈夫そうだ。
 開いていないドアを開けるには勇気がいった。何回かノックのための拳を挙げてはおろし、やっと覚悟を決めてドアを叩く。ゴンゴン、と自分で思ってたより力強くて、内心やらかした気分になる。
「はーい?」
 人影がドアの向こうに近づいてきて、ためらいなくドアが開かれた。
「あ、昼の」
 永和先輩の、眼鏡の向こうの目が温和そうに細められた。
「何か用かな? あ、見学?」
「えと、あの、はい」
 勇んできたもののなんと言えばいいのか。もはや考える時間もなく、厳密に言えば見学ではないのに、気が付いたら頷いていた。
「どうぞどうぞ!」
 永和先輩は心の底から嬉しそうに―脳裏に先ほどの尋美の姿が重なった―ドアを手で押さえたまま体を斜めにして私に入室を促す。
 恐る恐る足を踏み入れたオカ研の部室、もとい美術準備室は、普通の教室の半分ぐらいの大きさだった。それをさらに古くて大きなロッカーがしきりのように部室を奥と手前で二分している。手前はこの部屋の本来の用途である美術室の備品が置かれているが、奥は長机やパイプ椅子、壁中に雑誌や新聞の切り抜きに、よく分からないメモ書きが張ってある。部屋の雰囲気は奥と手前で大分違うが、共通して言えるのはどちらも散らかっているとういうことだ。
 奥の部室スペースの入るとすぐにカーテンのかかっていない窓ガラスの向こうが目に入った。グラウンドとその向こうの住宅街が見渡せて、窓が開いているせいか、グラウンドの野球部の声と、三階の音楽室でやっている吹奏楽部の練習音が聞こえる。ドアがしめられると、同じ階の格技室の音は逆に聞こえない。
 その窓ガラスの前に、古ぼけたソファが置いてある。皮の縫い目がところどころ避けて薄汚れた白い中身が見えるそのソファに、一人の女生徒が座っていた。肘掛に左ひじをついて漫画を読むその姿は、永和先輩よりよっぽどこの部屋の主のように見えたが、足元をよく見れば私と同じ赤いラインの上履きを履いている。つまり一年生だ。
 背中までぐらいのロングヘアだけど、耳の前の毛だけは輪郭のライン辺りで切りそろえた、いわゆる姫カットには見覚えがある。体育で一緒になる、隣の四組の子だ。とはいえ、話したこともないし、名前すらしらない。
「マヨコさん、一年生が見学に来てくれたよ」
――真横? いや、多分名前か。
 マヨコ、と呼ばれた彼女はずいぶん古そうな漫画―おどろおどろしい表紙のホラーのようだった―の読みかけのページを指で押さえながら、顔を上げて立ち上がる。すらりと背が高い。おまけになんだか目力が強く、じっと見下ろされるとなんだか緊張した。
「ああ……三組の染井吉乃じゃないか」
 髪型にそぐわず、マヨコの言葉は低くてぶっきらぼうだった。そして私のことを知っていた。「なんで?」と思わず尋ねると、「隣のクラスの奴の名前ぐらい知ってるだろ」とそっけない調子の返事がきた。
「目立つ名前だし」
「ぐっ」
 続いた口撃に私はうめいた。
 マヨコだって十分耳慣れない響きだけど、突っ込むだけ墓穴だ。
 今言われたように私の名字は染井、下の名前は吉乃。つまり感じこそ微妙に違えど、ソメイヨシノ。父が小学生の時から『女の子がうまれたら絶対につける!』と心に決めた名前だったらしい。吉乃単体なら少し古風ぐらいの名前なのに、名字のせいで完全にネタになる。これで父が無類の桜好きならば「風流でしょう」とまだ弁解の余地があるのに、当の本人はソメイヨシノとエゾヤマザクラの見分けすらロクにつかないし、花見とは外でジンギスカンをやることだと思っているのだから笑えない。
 このネタで付けられた名前が友達作りに役立つかと思えば、今回は全く期待外れで。少なくとも初日の自己紹介以来、同級生たちは全くの無反応だ。小学中学では男子に散々からかわれたので―故に何度も廊下で追いかけた―ほっとした反面、渾身の一発ギャグをスルーされたような気分になった自分にもちょっとショックだったのは内緒だ。
「なんだ、知り合いだったんだ?」
 私たち二人の間に何とも言い難い空気が漂ったが、永和先輩は全く気付いていないようにおっとりとした声でそんなことを言う。
「違います。知ってはいるけど知り合いではないです。ほぼ初対面です」
「ただ体育が一緒の隣のクラスなだけです」
 そろって否定すると、先輩はどこか不思議そうに首をかしげた。
「まあ、いいけど。僕は三年の永和。オカ研の部長、いや会長か。去年同好会に格下げになったんだ。なにせ僕とマヨコさんの二人しか部員がいないから」
 なるほど。と思った。さっき一瞬尋美が脳裏にちらついたのはここもまた部員不足に悩んでいるからか。こういっては失礼だけど、どちらも人気が集まって大所帯になる様子は全く想像が出来ないのは確かだ。でも格下げ、ということは、去年と一昨年は人がそこそこいたのだろうか。
 一方でマヨコは再びソファに腰を下ろした。
「仁戸名真夜子。一応副部長」
 漫画を開きながらの、素っ気ない自己紹介だ。クラスも分かってるのでそれ以上言うこともないんだろうけど、そんなに続きが気になるのか?
「染井さんはオカルトに興味が? あ、どうぞ座って」
 先輩にパイプ椅子を勧められて、私はおずおずと座る。二人しかいない部活なのに、部室の椅子は人数分よりかなり多い。やっぱり昔は人が結構いたんだろうか。ただ私が座ったこの椅子だけ、不思議とちょっと新しい。他は破けてソファ同様スポンジが出ていたりするのに。
「ええと、この学校の七不思議が、気になってて」
 私が素直に答えると、永和先輩がほんの一瞬目を丸くして、ちらりと真夜子の方を見た。彼女は相変わらず漫画に夢中で、こちらの話を聞いていたのかも分からない。
「ニッコーの七不思議ね……ちょっと待ってね」
 隣に座っていた先輩は再び立ち上がると、一番左手のロッカーを開けた。錆びた音を立てたロッカーの中から出てきたのは、とても分厚いファイルだ。表紙に『日照高校七不思議目録』と書かれたそれは、すぐに私の前に置かれた。分厚い。兎に角分厚い。ファイルの許容量をオーバーしているのは明らかで、表紙が弓なりにゆがんでいる。
「七不思議、勿論うちで調べてるよ。ただちょっと量が多くて」
「量が多い?」
「『七』不思議なのに、七つに収まらないんだ」
 先輩が表紙を開いた。サイドには五十音順のインデックスが貼られている。一ページ一ページに、噂話の概要が場所や体験談と一緒にまとめられている。
「染井さんが聞いたことがあるのはどんな話?」
「その……B棟四階の魔女っていう話で」
 真夜子が顔を上げ、突然立ち上がった。会話に参加するのかと思いきや、漫画を読み終わっただけらしい。ファイルが出てきたのとは別のロッカーに―ちらりと見えただけでもぎっしりと漫画が詰まっていた―しまいに行く。戻りは手ぶらで、ソファに戻ると腕と足を組んでどこか偉そうに、こちらを見ている。
「B棟四階の魔女か……知ってはいるけど、知られている内容はとっても少ない話だね」
 真夜子の一連の行動も意に介さなかった先輩が、ファイルの後ろのほうを開いた。彼の言う通り、ページはあるものの、書かれている内容はとても少ない。
『B棟四階に魔女が出る。時折空を飛ぶ姿が目撃される』
 ただそれだけ。アニキから聞いた話と違う。
「あの……出会えたら願いが叶うって聞いたんですけど」
「……はあ?」
 口を挟んだのは真夜子だった。切りそろえた前髪の向こうで眉が顰められている。
「新しい情報だ!」
 逆に目を輝かせたのは先輩で、今にも爆発しそうなファイルから文字の密度の一際薄い魔女のページを取り出して、私から聞いたばかりの言葉をかき込んでいる。
「誰から聞いた?」
「うちの兄」
 立ち上がり、詰め寄るように私の真後ろに立った真夜子が何か口を開きかけて、また噤んだ。壁の時計を見上げる。
「すごい、すごい! 近頃は七不思議の噂もあんまり聞かなくなっていたし、うちも廃部寸前だし、なのにここに来て新しい情報と出会えるなんて! しかもB棟の魔女! ありがとう染井さん!」
「……部長、時間大丈夫すか」
 テンション爆上げの永和先輩に水を差すように、冷やかに真夜子がそう言った。ハッとなって先輩も腕時計を確認すると、「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げる。
「やばい、行かなきゃ!」
 弾けるように立ち上がると、窓辺に置いてある鞄を手に取った。
「ごめん染井さん、よかったらまた遊びに来て! 真夜子さんあとお願い! じゃあ!」
「は、はい」
 勢いのまま飛び出していく永和先輩の背中が錆びついた音のドアの向こうに消えると、背後から真夜子のため息が聞こえた。
「あの人放課後はほとんど塾で埋まってんだよ。医学部志望なんだと」
「へえ……」
 確かにうちは進学校だけれど、札幌の高校の中では中堅より少し上程度だ。医学部への進学実績ってあるんだろうか。気にしたこともなかったけど。
 真夜子と二人きりになり、部室内は沈黙に包まれた。窓の向こうからカーンと野球部らしき快音が聞こえる。
 何か喋るべきなんだろうか。特に思いつかないけど。
 真夜子が何か聞いてくるかと思いきや、先輩がいなくなった途端に興味も失せた様子でソファに再び腰を下ろした。携帯電話をいじりはじめているので、仕方なく私は目の前に置かれたままのファイルをめくる。
 それにしても、よくもまあ集めたものだと感心する。メジャーなところではトイレの花子さんもあるし、初めて聞くようなのものも多い。作法室には座敷童子がいる、なんて本当だろうか。家庭科部がお菓子を作ると必ず一人分足りなくなるので、必ず一人分を多くに作らなくてはならない、という話は誰か多く食べてるんじゃないの? という気もする。
「オカ研、入るの?」
「……考え中」
 魔女の話を聞きに来たのに、むしろこちらが情報提供する程度にしか知られていなかった。正直がっかりだ。
「仁戸名さんは魔女見たことある?」
「ある」
 意外な返事に振り向いた。真夜子はなんてことのない顔のままケータイをいじり続けている。
「願いは、叶った?」
「さあ、どうかな。人に叶えて欲しい願いなんてないし」
 パチン、と二つ折りの白いケータイを閉じた真夜子は立ち上がると、私の横まで来る。
「自分の願いは自分で叶える」
 真剣なまなざしにどきりとした。なにか、内に秘めた重大な決意が垣間見えたような気がした。己の悩みがちっぽけに感じて、思わず目を逸らす。
 いや、十分ちっぽけなんだけど。
「ああ、家庭科部の噂、それもうないよ」
 横から開きっぱなしのファイルの中身を見て、真夜子は胸ポケットから三色ボールペンを出した。赤で隅にバツを付ける。
「これって誰かがこっそり食べてたんじゃないの?」
 私が言うと、フッと真夜子が笑みをこぼした。笑ったの、初めて見た気がする。彼女はぺらりとページをめくった。話には続きがあるようだった。
――それは部内で『毒見さま』と呼ばれていたらしい。
「うちみたいな常に存亡の危機に瀕してる極小部と違って、家庭科部は常に二十人前後が在部するそこそこでかいとこだ。なのに部員全員が見張りあっていても、必ず一人分がなくなる。その内に誰かが面白がって名前をつけ、席まで用意した。これで『誰かのイタズラ』が掻き消えて、『不思議』が確立した」
 真夜子は人差し指を立てて微笑む。私は背中がぞくりとした。一見ただのごっこ遊びのようでいて、なのに私の頭の中で、ただの名前だけの存在だった『毒見さま』が急に影のように姿を現した気がしたのだ。
 これで終わりかと思いきや、真夜子の話はなおも続く。
「そして決定的だったのは、あるとき何も知らない部外者―たしか部員の彼氏だったか友達だったか―がやってきて、知らずに毒見さまの分を食べてしまったことがあった。結果」
 わざとらしく言葉を切った真夜子の話の続きを、私は神妙な気持ちで待つ。
「嘔吐やら腹痛やらなにやらで入院騒ぎ」
 思わず拍子抜けしてしまった。
「それってただの食中毒じゃあ」
「まあそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。同じものを食べたはずの他の部員はなんともなかったから。ともあれ、以来『毒見さま』の分を食べた者には天罰が下る、という話が付属するようになった。入院は噂ではなく事実だからな」
 私はファイルを見下ろして、真夜子が先ほど書き記した赤いバツ印を指でなぞる。
「……なのに、もう噂がない?」
 真夜子はふふと笑って頷いた。机から離れると、再びソファに腰を下ろす。
 簡単に途切れるような噂ではない。よくある怪談みたいに噂話だけの存在ではなく、実際に毒見さまの分も作る必要があるし、作らなければ一人分が足らなくなるからだ。それをやらなくなったということは、ある時から毒見さまの分が減らなくなった、ということだろうか。
「さあてね」
 尋ねてみたけど、自分から話を出したというのに、真夜子の返事はその程度のものだ。答えを知っていてその返事なのか、知らなくてその返事なのかは判別つかない。ニヤニヤしているので、前者のような気がする。
 噂が本当にないのか、私に確かめるすべはない。家庭科部に知り合いもいないし。確かめるためだけに見学に行く気にもなれなかった。
 薄気味が悪い。毒見さまの話だけじゃなく、真夜子もだ。
 魔女の話もほとんど聞けなかったし、もうここに居る意味もないだろう。私は立ち上がり、帰ることを告げて鞄を肩にかけた。
「また来なよ。部長が喜ぶ」
 喜ぶのが永和先輩なあたり、真夜子自身はそうは思っていない気がした。というか私が帰ると真夜子一人きりになるのに、彼女は帰るつもりはないらしい。こんなところで一人で何をするのだろう。また漫画の続きを読むのだろうか。
 いや、どうでもいいか。
「じゃあ、お先に」
「そういえば」
 背を向けた私に、真夜子が思い出したように声をかけてきた。
「魔女に何を叶えて欲しかったんだ?」
「友達……なんでもいいでしょ」
 素直に答えかけて、やっぱりやめた。笑われるに決まってる。
「ふうん、じゃあ、まあお疲れ、よい週末を」
 幸いにも深く追求してこなかったので、今度こそ部室を後にする。
 ドアを出て、少しだけ真夜子の方を振り向いてみた。ひらりとやる気なさげに手を振った真夜子の姿が、閉まっていく引き戸に遮られていった。



「うーん、時間の無駄だったかもしれない」
 とはいえ、今日は尋美と真夜子に永和先輩と、久々に学校で先生以外と会話をしたことに気が付いた。先生とだって、挨拶以外のことを毎日話すわけじゃないから、本当に久々に学校で喋った気がする。
 そうなると、やっぱり無駄じゃなかったと思うべきか。
 しかしこの学校の七不思議の多さって、一体なんなのだろう。小学校なら怪談好きでも納得できるけど、高校生になってまでオカルトチックな噂を信じる子が多いのだろうか。それとも本当に、幽霊みたいなものがここには実在する……?
 そう考えると、人けのない生徒玄関で急に心細くなってきた。ちゃんと全部目を通したわけじゃないので、この場所の怪談は見なかったけど。
 急いで靴を履きかえて、生徒玄関を出る。
――ふと、空を見上げた。
「あ」
 B棟四階の屋上から、一直線に空に向かって飛び立つもの。
 UFOじゃない。『未確認』じゃない。今度こそ、それは肉眼ではっきりと見えた。つばの大きな帽子がはためいて、一瞬しか顔が見えなかったけど、はっきりと。
 竹ぼうきに跨ったその魔女は―
「仁戸名真夜子……?」
 これが私の、始まりだった。



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